イギリス連邦軍の退却とは? わかりやすく解説

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イギリス連邦軍の退却

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:17 UTC 版)

ギリシャの戦い」の記事における「イギリス連邦軍の退却」の解説

ギリシャからはあまり知らせがないが、13,000人の兵士金曜日夜にクレタまで退却したとのこと。だから、それなりの確率脱出できる希望はある。恐ろしく不安だ・・・(中略)・・・戦時内閣チャーチルは「我々はギリシャでたった5,000人しか失わないだろう」と言う。しかし、我々は少なくとも15,000人を失うことになるだろう。チャーチル偉大な人物だが、日に日に希望的観測毒されていく。」 ロバート・メンジーズ個人的日記1941年4月27日28日より| 4月11日から13日にかけてのギリシャにおいて、イギリス中東派遣軍司令官アーチボルド・ウェーベル大将増援できないウィルソン警告し中東派遣軍のフレディー・ディー・ガンガン(Freddie de Guingand)少将ウィルソン信頼する将校との間で避難計画について議論することを認めた。しかし、この時点ではこの退却主眼においた方針採用することも言及することもできず、この方針はギリシャ政府から提案されなければならなかった。ウェーベルがウィルソンにこの提案をした翌日、パパゴスは最初の行動起こしたウィルソン中東派遣軍司令部報告し4月17日H・T・ベイリー・グローマン海軍少将退却備えるためにギリシャ派遣したその日ウィルソンギリシャ王、パパゴス、ダルビアック、海軍タール少将らを集めアテネ会議開いた。夜、国王そのこと伝えたコリジスは王から与えられ仕事果たせず、また、期待裏切ったとして自殺した4月21日イギリス連邦軍クレタ島、及びエジプトへの撤退最終決定された。そして、ウェーベルは口頭での命令書面したためウィルソン送ったニュージーランド第4旅団アテネへの隘路(後にニュージーランド軍24時間峠と呼ばれる)を防衛するために残っている間、ニュージーランド第5旅団所属していた約5,200名は4月24日の夜、東アッチカのポルト・ラフティ(Porto Rafti)から退避した4月25日AnzacDay)、少数イギリス空軍ギリシャ去り(ダルビアックはクレタ島イラクリオン司令部移設した)、そして、オーストラリア軍10,200名はナフプリオメガラから撤退した。しかし、輸送船アルスタープリンス(Ulster Prince)がナフプリオ付近座礁したため、2,000名が4月27日まで待機させられた。このことから、ドイツ軍ペロポネソスの港でもイギリス連邦軍退避始まっていることに気づいた。 我々は、ギリシャ軍最高司令官であるパパゴスの意向逆らってギリシャ残留し、それでギリシャ荒廃さらしてしまうわけにはいきませんウィルソンもしくはパレイレットが、パパゴスの要請に対してギリシャ政府の承認をいただくことになるでしょう。その承認得られ次第撤退開始されますが、これはギリシャ軍との協同によるテルモピュライ地区への撤退可能性否定するものではありません。そちらは当然、できる限り材料温存なさりたいでしょう1941年4月17日ギリシャ政府の提案に対してウィンストン・チャーチル 4月25日ドイツ軍コリントス運河占拠するために空挺作戦行ったが、これはイギリス軍退却分断することと、ドイツ軍コリントス地峡への進撃確保する目的があった。イギリス軍砲撃のあおりで破壊されるまではドイツ降下猟兵攻撃成功していた。第1SS自動車化連隊イオアニア再編成されアルタからメソロンギ(Messolonghi)へピンダス山脈西山麓沿いに進撃し西からコリントス地峡への進撃路を確保するためにペロポネソス半島パトラ渡った4月27日午後5時半SS連隊アテネ到着苦戦していた降下兵部隊が他の部隊救援されているとの情報得たコリントス運河渡り一時的な拠点確保したことにより、第5装甲師団ペロポネソス半島全体イギリス連邦軍追撃することを可能にした。イギリス連邦軍がすでに退避開始し始めていたため、第5装甲師団アルゴス経由カラマタ進み4月29日南海岸へ到着、そこでピルゴス(Pyrgos)から来ていたSS部隊合流したペロポネソスでの戦いは船に乗り損なって孤立した少数イギリス連邦軍部隊との間で小規模に行われたギリシャ中部における攻撃数日遅れたため、イギリス連邦軍大部分分断することはできなかったが、オーストラリア16第17旅団分断することには成功した4月30日、約50,000名の将兵退避終了した一方4月24日から5月1日までの間で駆逐艦ダイアモンド」、「ライネック」とイギリス貨物船4隻、オランダ船3隻、ギリシャ23隻が失われたドイツ軍はおよそ7〜8,000名のイギリス連邦軍将兵(2,000名のキプロスパレスチナ将兵を含む)とユーゴスラビア将兵捕虜にし、その一方でギリシャ軍捕虜となっていたイタリア将兵解放した

※この「イギリス連邦軍の退却」の解説は、「ギリシャの戦い」の解説の一部です。
「イギリス連邦軍の退却」を含む「ギリシャの戦い」の記事については、「ギリシャの戦い」の概要を参照ください。

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