アンドリュー・ジャクソンとの論争
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「ジョン・アデア (ケンタッキー州知事)」の記事における「アンドリュー・ジャクソンとの論争」の解説
ジャクソンの公式報告書では、ケンタッキー兵が後退したことに西岸の防衛線崩壊の責があるとしており、多くのケンタッキー州民はそれが、東岸でアメリカ軍前線を守り勝利を確実にしたアデアの民兵隊の重要さを損なうものと感じた。デイビス隊は、この報告書がジャクソンの事実誤認に基づいていると主張し、アデアに公聴会開催請求をおこなうよう求めた。公聴会は1815年2月にテネシー州のキャロル少将を主催者として開催された。この会では、「ケンタッキー州民兵の後退は、その位置取りを考え、武器が足りなかったことなど要因を考えると許されるものである」と裁定し、西岸における部隊配置は「例外的で」あり、ルイジアナ民兵500名が大砲3門と強力な胸壁で支えられ、防衛戦の延長は僅か200ヤード (180 m) だったのに対し、デイビスのケンタッキー州民兵170名は武装がお粗末で、小さな溝によってのみ守られ、300ヤード (270 m) 以上の防衛戦を守ることを期待されていたと述べていた。1816年2月10日、ケンタッキー州議会はニューオーリンズの戦いにおけるアデアの功績、およびジャクソンが非難した兵士の弁護に対して感謝状を贈る決議案を通した。 ジャクソンは公聴会の裁定を承認したが、それはアデアを含む多くのケンタッキー州民が望んだジャクソン報告書に対する完全な反論ではなかった。アデアは以前ジャクソンの親友の一人だったが、直ぐに公開した手紙でジャクソンにその公式報告書を撤回するか修正することを要求した。しかしジャクソンは拒んだ。この事態は1815年6月になって解決した。ジョン・トーマスの秘書H・P・ヘルムが、ジャクソンが公式報告書に添付していた「将軍の」注釈書をフランクフォートの新聞に公開した。この注釈書では、最初の報告書でデイビス隊の臆病としていたことを「誤解だった」と将軍が確信しており、その後退は「許されるだけでなく、絶対的に正当化できる」と考えているとも述べていた。この注釈書はアデアの手紙に反応したジャクソンからのものと考えられ、その後ケンタッキー州全体で再出版された。しかし「将軍」と呼ばれたのはジョン・トーマス将軍であり、ジャクソンはそれを見ていなかった。ヘルムはその注釈書を出版した新聞に訂正を申し入れたが、それが掲載されることは無かった。 ジャクソンがその注釈書を見たのは、ボストンの新聞がケンタッキー州民兵を批判したのに対して、1817年1月に再度出版されたときだった。その後「ケンタッキー・レポーター」紙に、その注釈書は偽造であると非難する文書を送った。「ケンタッキー・レポーター」はこれを調査して、トーマスの注釈書が如何にしてジャクソンのものとされたかの説明を掲載した。注釈書が意図的に偽造されたものであるというジャクソンの主張はあまりに扇動的であると感じたので、ジャクソンの手紙は掲載しなかった。ジャクソンの非難は現在誤りであると証明されている。編集者はその説明がジャクソンを満足させられないものであれば、この問題に関する追加注釈の全てを掲載すると約束した。1817年4月にあったジャクソンの反論では、アデアが意図的に注釈書を誤解したことを示唆し、それらはおそらくアデア自身によるでっち上げだと再主張していた。アデアは、注釈書に対してジャクソンが「真のスペイン様式で装われた虚偽の皿」と言っていることを、バー陰謀に関わったとされるアデアに対する当てこすりだと考えた。ジャクソンは、ケンタッキー州民に対して以前は抱いていなかった見せかけの証拠として、戦闘中にケンタッキー州民兵が示した他の不名誉な行動を報告しなかったとも示唆した。この手紙で論争を全国的な脚光を浴びるものにさせ、アデアはデイビス隊の弁護のためとジャクソンの陰謀告発の撤回を要求するために、ジャクソンとの討論を再開した。1817年5月の反論では、ニューオーリンズでのケンタッキー州民兵隊の弁護を再主張し、ジャクソンの主張の多くを取るに足りないこと、真実でないこととして否定していた。陰謀の存在をきっぱりと否定し、支持するに足る証拠無しに告発するジャクソンを厳しく非難していた。ジャクソンのスペインにたいする仄めかしについては、ジャクソンもバーと関係していたことを思い出させていた。 ジャクソンはアデアの悪行とするものについて有効な証拠を提示できなかったので、陰謀が可能だったとする間接的な証拠を提出した。ジャクソンの反論は、チェロキー族との条約交渉にあたっていたために遅れ、1817年9月3日に掲載された。これでは空間と距離に基づく複雑な計算を使い、アデアがニューオーリンズの戦いで指揮していたと主張する兵力の半分しかいなかったと論じていた。さらにアデアはデイビスに、アデア指揮下の他の旅団が既に武器を持ち去ったことを知りながら、ニューオーリンズに行って武器を取ってくるよう命じたと主張した。アデアが愚かな命令を出したか、あるいはアデアの主張する本隊にそれほど兵士がいなかったかのどちらかだと言った。さらにこの手紙が事件に対する最後の声明となることを約束して結んでいた。1817年10月29日付けアデアの反論は、来ることの無かったニューオーリンズからの文書を待っていたので遅れたと言っていた。その中では、ジャクソンの副官に宛てた手紙から引用し(ジャクソン自身が以前の討論で言及していた)、ジャクソンは1815年にトーマスの注釈書があることもトーマスが書いたことも知っていたが、それを撤回するチャンスを失ったということを示していた。また、一貫して1,000名に近かったと報告していた指揮下にあった兵力に関する証言を弁護し、なぜジャクソンが今になってこれに異議申し立てするのかを尋ねた。最後にアデアはジャクソンの命令でニューオーリンズから武器を持ち出しただけでなく、それを実行するためにジャクソンの馬に乗ってニューオーリンズまで行ったと主張していた。伝承では、この手紙でアデアかジャクソンのどちらかが決闘を申し込むところまでいったが、双方の友人が監視のために集まり、それを回避させた。それが起こったという文書による証拠は残っていない。二人の間の緊張関係はその後緩和され、1828年にジャクソンの妻ラチェルが死んだときは、アデアがジャクソンの弔問に行った。ジャクソンが1824年、1828年、1832年の大統領選挙に出たときは、アデアがジャクソンを応援した。これらの選挙でジャクソンの対抗馬はジャクソンの手紙を集めてケンタッキー州における選挙運動パンフレットで利用した。
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