アルトマルク号事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 03:51 UTC 版)
「アルトマルク (船)」の記事における「アルトマルク号事件」の解説
アルトマルクは、ハンブルクのブローム・ウント・フォス社で建造された。1936年(昭和11年)6月15日に起工。1939年(昭和14年)9月の第二次世界大戦開戦時、アルトマルク(ダウ艦長)は大西洋で通商破壊戦を準備するドイッチュラント級装甲艦(ポケット戦艦)アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee) を支援する任務に就いた。 開戦直前の8月2日、三か月分の補給物資を搭載してドイツを出発した。アメリカ合衆国テキサス州ポートアーサーでディーゼルエンジンの燃料9,400トン(ポケット戦艦の機関用)を搭載、8月19日に出発してカナリア諸島南西海域にむかった。9月1日、洋上でアドミラル・グラーフ・シュペー(艦長ハンス・ラングスドルフ大佐)と初めて会合し、補給をおこなう。以後、シュペーとアルトマルクは行動を共にした。9月11日、イギリス海軍の重巡洋艦カンバーランド (HMS Cumberland, 57) と遭遇しかけたが、シュペーのアラド水偵が飛行偵察で英重巡を発見し、シュペーとアルトマルクは逃げ出して事なきを得た。9月26日、ドイツ海軍総司令部作戦部 (OKM) から海上交通破壊戦開始の許可がおりたため(受信25日)、翌27日、シュペーはアルトマルクを分離して次の補給予定地点に向かわせた。 シュペーは餌食とした多くの敵商船から脱出した乗組員を救助し、これらの民間人船員の世話をアルトマルクに任せた。10月16日、シュペーとアルトマルクは会合して補給と捕虜の移動をおこなう。翌17日、シュペーとアルトマルクは分離した。その後は10月28日、11月26日から29日、12月6日に南アメリカ~南アフリカ中間地点で補給をおこなう。7日午前8時、シュペーは帰国直前に実施する洋上補給地点を示し、南アメリカにむかった。12月13日、アドミラル・グラーフ・シュペーはラプラタ沖海戦で損傷し、逃げ込んだウルグアイのモンテビデオで17日に自沈した。 詳細は「アルトマルク号事件」を参照 補給すべき相手を失ったアルトマルクは船内に捕虜299名を収容したまま大西洋を北上し、ブリテン諸島を大きく迂回、ノルウェー沿岸に沿ってドイツに戻ろうとした。1940年(昭和15年)2月14日、中立国のノルウェー領海で魚雷艇や駆逐艦による臨検を受けた。ノルウェー側はアルトマルクを調査して、通過を許可した。だがイギリス海軍は納得せず、本国艦隊隷下の駆逐艦部隊でアルトマルクを追跡する。チャーチル海軍大臣は「中立国であろうと関係なく、アルトマルクを捕えて英国人捕虜を救助せよ」と命じた。アルトマルクはヨッシングフィヨルドに逃げ込んだが、フィリップ・ヴァイアン大佐が指揮する駆逐艦コサック (HMS Cossack, F03) に接舷された。イギリス側が送り込んだ臨検隊とアルトマルク乗組員の間で銃撃戦となり、イギリス側はアルトマルク乗組員8人を殺して10人を負傷させ、捕われていた商船乗組員299名を奪還した。この捕虜奪還事件はアルトマルク号事件と呼ばれる。英国では成り行きの予測できない不透明な戦局に光を当て大喝采を浴びた。一方、ヒトラー総統は激怒した。英海軍の行為はノルウェー政府の中立性を疑わせるものであり、ドイツがノルウェー侵攻を推進する理由の一つになった。
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