アラブ統治下のシチリア社会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 00:49 UTC 版)
「イスラーム期のシチリア」の記事における「アラブ統治下のシチリア社会」の解説
シチリア島のアラブの統治者たちは土地改革(英語版)を行った。これは後に生産性を高め、大地主の勢力を弱めて小規模自作農の発達を促した。アラブ人たちはさらにカナートによって灌漑システムを改善した。オレンジ、レモン、ピスタチオ、サトウキビがシチリアに導入された。950年にシチリア島を訪れたバグダードの商人イブン・ハウカル(英語版)がパレルモについて記録している。カスル(Kasr、宮殿)と呼ばれる壁に囲われた区域(suburb)は今日までパレルモの中心であり、巨大な金曜モスクが後期ローマの大聖堂(カテドラル)の跡地の上にあった。アル=ハーリサ(Al-Khalisa、カルサ(英語版))には宮殿、ハンマーム(浴場)、モスク、政府官庁、そして私営刑務所(a private prison)があった。イブン・ハウカルは150の店舗で7,000人の精肉業者が取引していたと見積もっている。1050年までにパレルモの人口は350,000人に達し、ヨーロッパ最大の都市の1つとなっていた。ただしアンダルス(イスラーム・スペイン)の首都コルドバとビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの規模はさらに大きかった。この2つの都市は450,000人から500,000人の人口を抱えていた。パレルモの人口はノルマン人の統治下で150,000人に減少し、同じ頃にはコルドバでもムスリムの弱体化によって人口が大幅に減少した。1330年までにパレルモの人口は51,000人に減少した。 アラブ人の旅行者・地理学者・詩人であるイブン・ジュバイルは12世紀の終わりにこの地域を訪れ、アル=カスルとアル=ハーリサ(カルサ)について述べている。 この首都は華麗さと富という2つの恩寵に恵まれている。それはあらゆる人間が望みうる現実と空想の美しさ全てを持ち合わせている。華麗さと優雅さが広場(piazzas)と田園とを飾っている。通りと街道は広く、景観の美しさは目も眩むばかりである。街は驚異で満ち、コルドバ(Córdoba、ママ)と同じく石灰岩で建てられた建物がある。4つの泉から尽きることのない水の流れが街の中を流れている。あまりにも多くのモスクがあり、数えきることはできない。そのほとんどは学校としても機能している。この華麗さは目も眩むばかりである。 この時代を通じて、ビザンツ系シチリア人(Byzantine Sicilians)による反乱が継続的に、特に東部で発生しており、一部の領土は反乱の鎮圧前に再占領されることすらあった。 ムスリムに征服されたシチリアの現地住民は西シチリアのローマ化しカトリックを信仰するシチリア人と、主として島の東半分に住むギリシア語を話すビザンツ・カトリック信徒からなり、また相当数のユダヤ人もいた。この西部と東部の人々は1つの教会に属していたが、1054年の諸事件から分裂が始まった。1204年のコンスタンティノープルの寇略はビザンツ人の「正教」についての懸念に関する限り最後の一押しであった[訳語疑問点]。キリスト教徒とユダヤ教徒はムスリムの支配の下でズィンミー(庇護民)として旧来の信仰を維持することを認められたが、いくつかの制約を受けた。ズィンミーはジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)の支払いを要求されていた。ただしムスリムが支払う税(ザカート)は免除された。アラブ支配の下ではジズヤを支払う人々には各種のカテゴリーがあったが、共通項はムスリム支配への服従の証としてジズヤを支払い、引き換えに外部および内部からの攻撃から保護を受けるというものであった。誠実な宗教心によるか強制であるかは別として、数多くの現地人がイスラームに改宗した。ノルマン人による征服の時点で人口の約半分がムスリムであった。10世紀半ば、ファーティマ朝は積極的な改宗を進めキリスト教徒への弾圧を強化する政策を採用した。しかし、イスラーム支配が始まって100年が経過してもなお、多数のギリシア語を用いるキリスト教徒コミュニティがズィンミーとして、特に北東シチリアでは栄えていた。これは大きくは、共存を許したジズヤのシステムの結果であった。この被征服者との共存関係は1160年代のシチリア島の再征服の後、特に1189年のノルマンの王グリエルモ2世(ウィレルムス2世)の死の後、崩壊した。
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