アラブ総攻撃と武装反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/11 05:01 UTC 版)
「パレスチナ独立戦争」の記事における「アラブ総攻撃と武装反乱」の解説
4月19日にアラブ国民委員会創立の地であるナーブルスで同盟罷業が始まり、月末には国民委員会は全ての町や大きな村で設立された。 4月21日、5大主要党の代表はナーブルスで決定に合意し、工場、輸送、小売に関わる全てのアラブ人に4月22日に同盟罷業するよう呼びかけた。同盟罷業は最初は労働者や地方委員が組織していたが、下からの圧力によって政治指導者も組織に協力するようになった。これは1936年4月25日のアラブ高等委員会(AHC)設立に繋がった。委員会は「イギリス政府が現在の政策を根本的に変えるまで総同盟罷業を続ける」事を決議し、要求を以下の3点にまとめた。 ユダヤ人入植の禁止 アラブ人からユダヤ人への土地の受け渡しの禁止 代表議会に責任を持つ国民政府の設立 総同盟罷業開始から約1ヶ月後、指導者集団はユダヤ人入植に対抗して税金支払いを完全に拒否した。田舎では武装反乱が散発的に始まり、時が経つに連れて組織化されていった。反乱の主要標的の1つはイラクの石油企業が数年前に建設したモスル・ハイファ石油輸送網で、ガリラヤ湖の南のヨルダン川地点が狙われた。石油網の様々な場所が何度も爆破された。他の攻撃は線路や電車、ユダヤ人入植地、混住地域でのユダヤ人、ユダヤ教徒等に向けられた。 同盟罷業への対抗策は最初から厳しく、後には警告無しの家探しや夜襲、予防的拘留、鞭打ち、国外追放、資産没収、拷問のように更に残虐なものになった。1936年5月初頭、イギリスは武装車両で装備したユダヤ人予備警察を設立した。イギリス政府は同盟罷業はパレスチナ人の完全補助を受けていると確信し、「アラブの民の意思と魂は弱まらない」事を知った。1933年~36年にパレスチナ・トランスヨルダンのイギリス空軍で少将を務めたリチャード・ペイーセ(1892年~1970年)は武装反乱は村人に補助されていると報告した。 「反乱軍から主導権を奪い返すには反乱や破壊活動を起こす村人に対抗策を打つのが有効とすぐに明らかになった。それ故警察監察官のR.G.B.スパイサーに村を調査させる共同作戦を主導した。表面上武器や指名手配犯を見付ける為に行う調査方式はトルコ方式に似ており、厳しく効果的だった。」 現実にはこの方法が村人と独立勢力の間の結束を創り出した。政府派のナブルス市長は「前回の調査で村で行われた行為は破壊や宝石の窃盗、聖なるコーランの破壊であり、これは農民を激昂させるだけだった」と高等委員会に抗議した。しかしながら、ユダヤ人職員のモシェ・シェートクは事件の有った地域の全ての村人は罰せられるべきだと述べた。 6月2日、独立勢力の列車を脱線させる計画はエジプトからの「ベッドフォード村及びヘートフォード村第2連隊」の厳しい警備によって阻まれた。6月4日、政府はこの事件を受けて多数のパレスチナ人指導者を集めネゲヴ砂漠のアウジャ・アル・ハフィーの拘留施設で監禁した。7月、ファウジ・アル・カウクジ(1890年~1977年)率いるシリアやトランスヨルダンからのアラブ人義勇兵によって独立勢力は部隊を4分割出来るようになり、150~200人の小隊はそれぞれ地域司令官が指揮した。 9月7日、ロンドンの植民地行政府が発行した政策宣言では状況を「パレスチナのイギリス政府への直接的挑戦」と述べ、ジョン・ディル中将(1881年~1944年)を最高軍事司令官に任命した。9月終盤、2万人のパレスチナのイギリス兵が「アラブ人勢力を検挙する」為に配置された。1936年6月、イギリスはトランスヨルダン、イラク、サウジアラビア、エジプトにパレスチナのアラブ人鎮圧を呼び掛けた。10月9日、支配者は同盟罷業を終えるよう呼びかけた。柑橘類の価格急騰により、スペイン内戦で作られた柑橘類しか買えなくなった。
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