アラブ軍によるティアナ遠征
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「ティアナ包囲戦」の記事における「アラブ軍によるティアナ遠征」の解説
小アジア東部の国境地帯に進軍したアラブ軍は、キリキアを襲撃しつつ帝国領内に侵攻したものの、ティアナ近郊にてマリアヌス将軍率いる帝国軍に敗れた。このアラブ軍の遠征がいつ行われたかはよくわかっていない。アラブ人バラーズリーが記した歴史書によれば、このウマイヤ朝の遠征はアブドゥルマリク(705年に亡くなった) の在位中に行われたとされる。ただ、現在の学者らは706年ごろから開始されたと主張している。バラーズリーによると、この上述の遠征軍を率いたのはマイムーンに居住していたMardaiteというシリア人キリスト教教徒の1人であったそうだ。彼はもともとウマイヤ朝第3代カリフムーアウィア2世の妹の奴隷であったが、そこから逃走し、シリア北部でウマイヤ朝に対して反抗的な活動を行っていたキリスト教徒の一団Mardaiteに逃げ込んだとされる。Mardaiteがウマイヤ朝に鎮圧された時、ウマイヤ朝の将軍で武勇な軍人として知られていたMaslama ibn Abd al-Malik将軍が彼を自由の身とし、そのまま対ビザンツ遠征軍の司令官に任命したと伝わっている。しかし彼の遠征軍は帝国軍に敗れそのまま指揮官以下全滅。Maslama ibn Abd al-Malik将軍は彼の死に対して、仇を取ることを誓ったという。 前述のウマイヤ朝遠征軍の壊滅を機に、Maslama将軍は自ら帝国に対して遠征を行うことを決意し、ティアナに向けて進軍を開始した。この遠征軍にはMaslama将軍の甥al-Abbas ibn al-Walidが副司令官として随伴していたとされる 。しかしながらこの遠征の日時はもやはり正確には伝わっていない。ビザンツ側の記録とアラブ側の記録に誤差があるため正確な日時を確定できないのである。それゆえ遠征の日時は707-708年とも、708-709年とも言われている。 アラブ軍はティアナを包囲し、攻城兵器を使い城壁にダメージを与え続けた。アラブ軍はなんとかティアナ城壁の一部を打ち崩すことに成功したものの、ティアナ城内に侵入することはできなかった。アラブ兵たちは何度もティアナに攻めかかったがそのたびにビザンツ帝国のティアナ守備隊が迎え撃ち、アラブ軍を追い返した。アラブ軍は冬になっても尚ティアナを包囲し続けた。しかし包囲戦が長期にわたった上に冬に突入したため、アラブ軍は食糧不足に陥った。そのためアラブ軍司令官らは、ティアナ攻略を諦めて完全に撤退するかどうか検討し始めたのだった。そうこうしているうちに厳しい冬が明け、春になった。この頃、一時的に皇位を追いやられていたユスティニアノス2世がビザンツ皇帝の座に舞い戻っていた。そして、Theodore Karteroukas将軍・Theophylact Salibas将軍らに大勢の軍勢を預けティアナ救援に向かうように命令した。ビザンツ年代記によると、この時派遣されたティアナ救援軍は通常よりも大軍勢ではあったものの軍勢の大半は武装した農民であり軍事的経験はほとんどなかったそうだ。現代の学者たちは、上記のように武装させた訓練不足の農民を援軍として派遣するという惨状は、ユスティニアノス2世が自身の復位に際して皇帝に反発する多くの軍司令官を更迭したことや、ビザンツ軍がアンキアラスの戦いでブルガール軍に大敗したことなどにより、当時の帝国軍が弱体化したことを象徴するものだと考えている。 ビザンツ帝国のティアナ救援軍はティアナ近郊でアラブ軍と対峙し、そのまま両者は戦闘を開始した。武装農民からなるビザンツ帝国軍は敢えなく敗れ、総崩れになった。ビザンツ帝国の貴族テオファネスが記した年代記によると、救援軍を率いていた2人のビザンツ将軍が仲違いしており、彼らは連携することなくそれぞれが勝手に自軍に対して攻撃命令を出したため大敗したとされる。結果、ビザンツ軍は数千人もの死者を出し、また数千人もの兵がアラブ側の捕虜となった。アラブ軍は戦闘ののち、ビザンツ救援軍がティアナの守備隊・住民らを支援するために運んできた多くの食料・武器などを接収し、その豊富な物資のおかげでティアナを継続して包囲することができた。ティアナの守備隊・住民は、帝国からの救援の希望が途絶えて備蓄された物資が底をつくのも時間の問題となってしまったため、アラブ軍と降伏に関する交渉を始めた。アラブ軍はこの時ティアナ側に対して、ティアナ住民・守備隊の退去の際の身の安全を保障することを約束し、その約定によりティアナは9ヶ月の籠城の末、ついにアラブに降伏した。しかしながら、ティアナ開城の折、アラブ軍は先の約定を違え、ティアナ住民をウマイヤ朝本国に奴隷として送還した、とテオファネスは記している。だが、ほかのどの文献にもそのような記述はない。その後アラブ軍はティアナを荒らし尽くし、本国に去っていった。
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