アミスタッド号関連訴訟とは? わかりやすく解説

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アミスタッド号関連訴訟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 05:32 UTC 版)

アミスタッド号事件」の記事における「アミスタッド号関連訴訟」の解説

1839年9月反乱罪および殺人罪に関する訴訟が、コネチカット州ハートフォード合衆国巡回裁判所提訴された。裁判所は、本件スペイン領海内にてスペイン船上起きた行為であり、本裁判所管轄権はないとした。 そのため、複数グループ奴隷、船、積荷に関する所有権を巡る訴訟を、巡回裁判所よりも下位地方裁判所提訴した訴訟起こしたグループには、ルイスモンテス、ゲドニー大尉と、ロングアイランド浜辺アフリカ人たち遭遇し、その逮捕助力した主張するヘンリー・グリーン大佐がいた。またスペイン政府は、1795年に米西間結ばれたピンクニー条約Pinckney's treaty)に基づいて船体積荷および奴隷スペイン返還するように求めた本条約の第9条には「公海上にて海賊盗賊の手から救出され全ての船および商品は、その性格関わらず全て正し所有者返還される」("all ships and merchandises of what nature soever, which shall be rescued out of the hands of pirates or robbers on the high seas, …shall be restored, entire, to the true proprietor")と記されていた。そのため、合衆国スペイン政府代理として、所有権提訴した奴隷廃止運動家たちは、ニューヨークシティ商人であったルイス・タッパン(Lewis Tappan)を指導者として「アミスタッド協会」(Amistad Committee)を設立しアフリカ人弁護するための資金集めた当初、英語もスペイン語話さないアフリカ人たちとの意志疎通は困難を窮めた。そこで言語学者ウィラード・ギブズWillard Gibbs)はアフリカ人たち母語であるメンデ語10までの数字覚えニューヨークの港に赴いて通訳出来人物が見つかるまで大きな声で数を数え続けたこの人物は、英国フリゲート艦バザード号(Buzzard)に乗る二十歳水夫、ジェームズ・コヴェイ(James Covey)であった。コヴェイ自身西アフリカ出身の元奴隷である。 奴隷廃止運動家たちは、ホセ・ルイスとペドロ・モンテスに対して暴行誘拐、および不当監禁の罪で訴訟した。同年10月ニューヨークにて彼等逮捕されると、保守層およびスペイン政府激怒し彼等保釈されキューバ向かった奴隷廃止運動家たちの地方裁判所における主たる主張は、1817年イギリススペイン間の条約と、これに基づくスペイン政府宣言によって、大西洋を横断する奴隷貿易非合法となっている、ということであった。そして、彼等立証したのは、アフリカ人たちは、メンディランド(現シエラレオネ)にて捕らえられ1839年4月フリータウンの南、ロンボコにてポルトガル人貿易商売られポルトガル籍船にて非合法にハバナ輸送されということであった。よって、アフリカ人たち奴隷ではなく非合法な誘拐被害者であり、自由が認められるべきであった彼等1820年以前からキューバ内で奴隷であったことを示す書類偽造であると示された(これはキューバでは広く行われている行為であった)。 当時アメリカ合衆国大統領マーティン・ヴァン・ビューレンは、奴隷制については特に強い主張持っていなかったが、スペインとの関係や、南部からの再選支持憂慮しスペイン政府側に立場をおいた。彼は、望ましい判決がでたら、上告が行われないうちにアフリカ人たちキューバに送るよう合衆国政府スクーナーニューヘイブン港に準備させた。 しかし、地方裁判所奴隷廃止運動家の主張認め1840年1月アミスタッド号と積荷をゲドニー大尉引き渡しアフリカ人たち合衆国政府によって母国帰還させるよう命じた。(アメリカ合衆国連邦政府は、1808年他国との奴隷貿易禁じ1818年施行1819年改正)の法により、密貿易による奴隷全て政府負担により帰還させることを決定している。)アミスタッド船長所有奴隷は、船長相続人合法的所有物認められキューバへの送還命じられた(この奴隷カナダへ逃亡)。 合衆国政府法定代理人は、ヴァン・ビューレン命令により、巡回裁判所即時抗告行った巡回裁判所1840年4月地方裁判所判決支持しつつも、国際的重要性鑑みて最高裁判所案件送致した。 この時点及んで、前大統領マサチューセッツ州選出連邦議会議員ジョン・クィンシー・アダムズが、最高裁判所においてアフリカ人たち弁護を行うことを引き受けた最高裁判所は、アフリカ人たち誘拐されたものである認定し彼等が(スペイン法に照らしても)合法的な奴隷ではなくルイスモンテス所有物ではなく、よってピンクニー条約第9条適用されないとし、その自由を認め暴力行為によって自身の自由を守る権利認めた(The Amistad, 40 U.S. 518 (1841))。また、彼等合衆国売却目的運ばれたのではないため、1818年施行の法は適用されず、連邦政府はそのアフリカへ帰還費用を負担する義務なし、とした。

※この「アミスタッド号関連訴訟」の解説は、「アミスタッド号事件」の解説の一部です。
「アミスタッド号関連訴訟」を含む「アミスタッド号事件」の記事については、「アミスタッド号事件」の概要を参照ください。

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