アミコファッションズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:25 UTC 版)
1964年(昭和39年)鯨岡阿美子の考えに共鳴した東急グループの五島昇が「金は出すが、口は出さない」と東急文化会館(現在は渋谷ヒカリエ)6階に事務所を与え、東急の社員2名を送り込む。「日本に既製服の時代をもたらす」ことに取り組む。ちゃんとした既製服を作るには人台(ボディー)で立体的に型を取る立体裁断(ドレーピング)技術が必要で、そのためにパターンメーカー(パタンナー)要請が急務だった。当時日本には立体裁断を教える人はなく、アメリカに出向きザ・ファッショングループからプラット・インスティテュートの教授、大野順之助を紹介され招聘する。またアミコファッションズは戦後ファッション界の草分け的存在となり、三宅一生ら多くのデザイナーに影響を与え、日本のプレタポルテの黎明期に活躍した。きもの姿でパリコレクションの取材に出かけ、各国のマスコミやメディアの注目を集めた逸話もある。
※この「アミコファッションズ」の解説は、「鯨岡阿美子」の解説の一部です。
「アミコファッションズ」を含む「鯨岡阿美子」の記事については、「鯨岡阿美子」の概要を参照ください。
- アミコファッションズのページへのリンク