アミコビルオープン、再開発頓挫、丸新閉店アミコビルオープン後は人の流れが変わり、東新町よりも徳島駅前の方が賑わう様になり始めた。1985年(昭和60年)には、これまで新町地区が圧倒的に上回っていた年間小売販売額を内町地区に初めて抜かれ、その後は現在に至るまで差が開く一方になった。丸新は、店舗面積が3倍以上あるそごうの圧倒的な品揃えに太刀打ちできず、また、これまで毎年丸新で行われていた催事をそごうに奪われるなど苦境に立たされた。西武百貨店の支援を受けて店舗の改装を行ったが、バブル景気の一時期を除いて売上は下がり続け、県内各地の出張所を閉鎖するなど事業縮小を余儀なくされた。頼みの再開発計画は、バブル景気只中の1988年に準備組合が設立したものの、その数年後のバブル崩壊と不況により停滞、1993年(平成5年)には西武百貨店が事業からの撤退を決めたため、事実上頓挫し、しんまちボードウォークの建設と、アーケードの改築が施されるにとどまった。同年、JR四国最大の駅ビルである徳島駅ビルが開業し、内町地区への客の流出はさらに加速、1995年(平成7年)3月、ついに丸新は閉店に追い込まれた。後継テナントはなく、敷地は阿波銀行が取得し、東新町商店街に面した丸新本館は取り壊されて広場になり、新館は阿波銀プラザとして残った。なお、丸新自体は倒産したわけではなく、負債を残すこともなかった。(徳島新聞朝刊平成7年2月の社会面特集「まるしん閉店の波紋」より)丸新は徳島飛行場の売店「丸新空港店」で、現在も営業を行なっている。丸新閉店後
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「新町地区 (徳島市)」の記事における「アミコビルオープン、再開発頓挫、丸新閉店アミコビルオープン後は人の流れが変わり、東新町よりも徳島駅前の方が賑わう様になり始めた。1985年(昭和60年)には、これまで新町地区が圧倒的に上回っていた年間小売販売額を内町地区に初めて抜かれ、その後は現在に至るまで差が開く一方になった。丸新は、店舗面積が3倍以上あるそごうの圧倒的な品揃えに太刀打ちできず、また、これまで毎年丸新で行われていた催事をそごうに奪われるなど苦境に立たされた。西武百貨店の支援を受けて店舗の改装を行ったが、バブル景気の一時期を除いて売上は下がり続け、県内各地の出張所を閉鎖するなど事業縮小を余儀なくされた。頼みの再開発計画は、バブル景気只中の1988年に準備組合が設立したものの、その数年後のバブル崩壊と不況により停滞、1993年(平成5年)には西武百貨店が事業からの撤退を決めたため、事実上頓挫し、しんまちボードウォークの建設と、アーケードの改築が施されるにとどまった。同年、JR四国最大の駅ビルである徳島駅ビルが開業し、内町地区への客の流出はさらに加速、1995年(平成7年)3月、ついに丸新は閉店に追い込まれた。後継テナントはなく、敷地は阿波銀行が取得し、東新町商店街に面した丸新本館は取り壊されて広場になり、新館は阿波銀プラザとして残った。なお、丸新自体は倒産したわけではなく、負債を残すこともなかった。(徳島新聞朝刊平成7年2月の社会面特集「まるしん閉店の波紋」より)丸新は徳島飛行場の売店「丸新空港店」で、現在も営業を行なっている。丸新閉店後」の解説
大きな核であった丸新を失ったのち、新町地区の衰退はさらに進み、2001年(平成13年)に徳島県初のシネマコンプレックスを備えたフジグラン北島が開店すると、新町地区にあった映画館は次々に閉館、2005年11月には、ダイエー徳島店及び徳島東宝が閉館したのを最後に、新町地区から映画館と大手スーパーが全て消滅することになった。東新町商店街の通行量は著しく減少し、昭和40年代の20分の1にまで落ち込んだ。空き店舗が増加し、取り壊された建物の跡地がコインパーキング化するなど、空洞化が目立っている。
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「アミコビルオープン、再開発頓挫、丸新閉店アミコビルオープン後は人の流れが変わり、東新町よりも徳島駅前の方が賑わう様になり始めた。1985年(昭和60年)には、これまで新町地区が圧倒的に上回っていた年間小売販売額を内町地区に初めて抜かれ、その後は現在に至るまで差が開く一方になった。丸新は、店舗面積が3倍以上あるそごうの圧倒的な品揃えに太刀打ちできず、また、これまで毎年丸新で行われていた催事をそごうに奪われるなど苦境に立たされた。西武百貨店の支援を受けて店舗の改装を行ったが、バブル景気の一時期を除いて売上は下がり続け、県内各地の出張所を閉鎖するなど事業縮小を余儀なくされた。頼みの再開発計画は、バブル景気只中の1988年に準備組合が設立したものの、その数年後のバブル崩壊と不況により停滞、1993年(平成5年)には西武百貨店が事業からの撤退を決めたため、事実上頓挫し、しんまちボードウォークの建設と、アーケードの改築が施されるにとどまった。同年、JR四国最大の駅ビルである徳島駅ビルが開業し、内町地区への客の流出はさらに加速、1995年(平成7年)3月、ついに丸新は閉店に追い込まれた。後継テナントはなく、敷地は阿波銀行が取得し、東新町商店街に面した丸新本館は取り壊されて広場になり、新館は阿波銀プラザとして残った。なお、丸新自体は倒産したわけではなく、負債を残すこともなかった。(徳島新聞朝刊平成7年2月の社会面特集「まるしん閉店の波紋」より)丸新は徳島飛行場の売店「丸新空港店」で、現在も営業を行なっている。丸新閉店後」を含む「新町地区 (徳島市)」の記事については、「新町地区 (徳島市)」の概要を参照ください。
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