アナントプルからの撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 17:21 UTC 版)
「グル・ゴービンド・シング」の記事における「アナントプルからの撤退」の解説
高原の地主たちはその後ムガル帝国の君主アウラングゼーブにパンジャーブ地方の君主であったワズィール・カーンを通して接近、シク教徒征服の支援を受けることを決断した。彼らの覚書はグルがカールサーという新しい秩序を設立していると述べていた。 「 私たち皆が大事にしてきた信念や習慣に反対する者がいます。彼 (ゴービンド・シング) は私達に彼は帝国に対して深い恨みを募らせており、ムガル帝国と戦うため手を組むよう求めて来ました。私たちはこれを拒否しましたが、大きく迷惑を被り困惑しています。彼は現在国中から男性や武器を集めてムガル帝国に対抗しようとしています。私たちは彼を抑えることができませんが、陛下の忠臣として、私たちは彼をアナントプルから追い出し、陛下の足元で雑草が成長することを許さないよう、陛下の支援を求めています。さもないと、彼はデリーへの侵攻を意図しているため、帝国全体にとって恐ろしい脅威となることでしょう。 」 ラージャ・Ajmer Chandの請願により、ムガル帝国の君主はシルヒンド、ラホール、カシミールの君主にグルに攻撃を開始するよう命令を下した。ムガル帝国軍はその地域のRangharとグルジャルにいた高原のラージャたちの軍に参加した。グルもまた戦いの準備を行い、彼の支持者がマージュハ、マールワー、ドーアーバー、その他の地域からアナントプルへと集まってきた。 帝国軍は1705年にアナントプルを攻撃し、市周辺に包囲網を敷いた。包囲を開始して数日後、ラージャ・Ajmer Chandはグルに自身の使節を送り、包囲を解くかわりにグルはアナントプルから撤退するよう求めた。グルはこの要求を拒んだが、彼の支持者の多くは食料やその他の物品の不足に苦しんでおり、グルに要求を受け入れるよう願い出た。より多くの支持者がグルにAjmer Chandの要求を受け入れるよう迫ったことで、グルはアナントプルの明け渡しを迫るAjmer Chandに対し、連合軍が第一に彼の国庫とその他の財宝を市外へと持ち出すことを許可するならば受けるとの返答を送った。連合軍はこの要求を受け入れた。グルは彼らの誠実さを試すために、要塞の外に荷物をウシに荷物を載せたキャラバンを送った。しかし、連合軍は財宝を強奪するため、キャラバンに攻撃を仕掛けた。彼らはキャラバンが何も財宝を持っていなかったことに気づいて失望した。グルはこれを受けてアナントプルを明け渡さないことを決断し、連合軍からのいかなる要求も拒むようになった。 最終的に、ムガル帝国のアウラングゼーブはグルに対し、クルアーンの名のもとに、グルと彼の支持者はグルがアナントプルを明け渡すことを決断した場合、安全な通過を許可すると誓った内容の、自らが署名した手紙を送った。彼の支持者や家族に強い圧力をかけられていたグルはこの要求を受け入れ、1705年12月20〜21日にアナントプルを明け渡した。 彼らがアナントプルを離れた最初の夜、グルの分隊は帝国軍により攻撃を受けた。複数の交戦を交えた後、グルと彼の支持者はSirsa河畔にたどり着いた。一行は洪水が起きていたSirsa (Sarsa) 川を渡る間に散り散りになってしまった。グルの母と彼の幼い二人の息子、ファテー・シングとゾーラーワル・シングは本隊から離れて迷い込んだ。老齢のグルの執事であったGanguは彼らを自身の村であるケーリーまで護衛した。彼の妻マーター・ジートー(英語版)は別の分隊におり、この分隊にはマーター・サーヒブ・カウル(英語版)もいた。この分隊はジャワハル・シング (Jawahar Singh) によりデリーまで護衛を受けた。川の氾濫により、グルの支持者の何人かは亡くなった。 グルは二人の年長の息子及び他のシク教徒とともに、なんとか川を渡り終え、Ghanaula村に到着した。彼はBachitar Singhの下に、ループナガル(英語版)へと進むよう百人の支持者部隊に指示を出した。グルは残った支持者とともに、彼の信頼する知人であったパシュトゥーン人のニハング・カーン(英語版)のもとに滞在するためループナガル付近のKotla Nihangへ向けて進んだ。彼はマーチヒワーラー(英語版)やラーイコート(英語版)へと進み、Bur Majraで休憩をとった。グルはSirhindから大規模な騎馬隊が彼を追ってきているとの知らせを受けた。彼はチャムカウルの砦において敵の騎馬隊と対決することを決断した。 「チャムカウルの戦い」も参照 帝国軍の騎馬隊は1705年12月にチャムカウルの要塞を包囲、チャムカウルの戦い(英語版)が始まった。グル・ゴービンド・シングの二人の年長の息子であったアジート・シングとジュジハール・シングは戦いで死亡した。グルは残ったシク教徒に最後の指令と、戦いで死亡することに対する準備をするよう求めた。しかし、彼の支持者はカールサーが残るためには彼の生存が必要であると主張し、グルをチャムカウルから逃す計画を立てた。サント・シングとサーンガート・シングは要塞に残ることが決まり、ダヤー・シング、ダーラム・シング、マン・シングはグルに従いチャムカウルとともに脱出の護衛をすることが決まった。グルは彼の「kalghi」 (帽子を装飾するために用いられる羽飾り(英語版)) と彼の鎧を、彼と風貌の似ていたシク教徒のサーンガート・シングに与えた。サーンガート・シングはグルが使用していた最上階の部屋に陣取った。グルは夜にチャムカウルを脱出、支持者とともに行軍を開始した。次の日、いまだグルが要塞の中にいると信じていたムガル帝国軍は要塞に向けて攻撃を行い、要塞内にいたすべてのシク教徒を殺害した。 グルは彼の仲間と離れ、JandsarやBehlolpurを通ってマーチヒワーラーに到着した。ここで、彼の3人の仲間であったダヤー・シング、ダーラム・シング、マン・シングが彼に合流した。マーチヒワーラーの老齢の「マサンド」であったGulabaは彼らに避難所を提供したが、自身の安全が脅かされることを恐れた。二人のパシュトゥーン馬の商人であったNabi Khanとガーニー・カーンが彼を助けることを決めた。グルの旧友であったカーンたちはUchh村のピール(英語版) (スーフィー) に変装させ、彼を安全に輿で護送した。Alam Girにおいて、ザミーンダールのNand Lalはグルを助けることを決めた。Alam Girより、グルはラーイコートへと進んだ。Silaoniにおいて、ラーイコートのムスリムの長であったRai Kalha IIIは彼を暖かく迎えたため、グルはしばらくここに滞在することとなった。 一方、グルの母Mata Gujriと彼の幼い二人の息子達はシルヒンドの君主であったワズィール・カーンに捕まった。二人の息子はイスラム教への改宗を拒んだ後に首を刎ねられ、Mata Gujriは彼女の孫の死を聞いたすぐ後に死亡した。Rai Kalhaの執事であったNoora Mahiはこの知らせをシルヒンドからグルの下へと届けた。マーター・スンダリーとマーター・サーヒブ・カウルはbhai Mani Singhにより護送されてデリーに向けて逃亡していた。
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