アナントプルからの離別と帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 17:21 UTC 版)
「グル・ゴービンド・シング」の記事における「アナントプルからの離別と帰還」の解説
1685年4月、グル・ゴービンド・シングはラージャ・マート・プラカーシュの招きに応じて自身の住居をシルマウル(英語版)にあるパオンター・サーヒブに移した。シルムール州の地名集によると、グル・ゴービンド・シングはBhim Chandとの決裂のためにアナントプル・サーヒブを離れることを強いられ、トカへと移動した。トカから、彼はマート・プラカーシュが統治するシルムールの首都であったナハン(英語版)を訪れた。彼はナハンからパオンター・サーヒブへと進んだ。マート・プラカーシュがグルを彼の王国に招いた理由はガルワール王国のラージャ・ファテー・シャー(英語版)に対する彼の地位を強化するためであった。ラージャ・マト・プラカーシュの要請を受け、グルは自身の支持者の助けを借りてパオンター・サーヒブに要塞を短期間で建設した。グルはパオンター・サーヒブに約3年滞在し、7つの聖典を書き上げた。 ナハンの王とガルワールの王ファテー・シャーの間の敵対関係はパオンター・サーヒブ滞在期間の後半期に激しさを増し、最終的にパオンター・サーヒブ付近のバガーニーの戦い(英語版)として現れることとなった。Fateh Shahは1688年9月18日に攻撃を開始、戦いはグルの勝利に終わった。1687年のナードゥンの戦い(英語版)では、アリフ・ハーン軍と彼の側近はBhim Chandとグル・ゴービンド・シング、その他のラジャ連合軍に敗れた。Bichitra NatakとBhatt Vahisによると、グル・ゴービンド・シングはビアース川の岸辺にあるナードゥンに8日間とどまり、様々な重要な将軍を訪問した。Bhanganiの戦いが終わった後しばらくして、ビーラスプルの後家女王であったRani Champaはグルにアナントプル・サーヒブ (Chakk Nanaki) への帰還を要請し、グルは了承した。彼は1688年11月にアナントプル・サーヒブに到着した。 1695年、ムガル帝国においてラホールを治めていたディラーワル・カーン (Dilawar Khan) は彼の息子にアナントプル・サーヒブを攻撃するよう命じた。ムガル帝国軍は敗れ、息子のフサイン・カーン (Hussain Khan) は戦死した。フサインの死後、ディラーワル・カーンは彼の側近であるジュジハール・ハーダとチャンデル・ライ (Chandel Rai) をシヴァリク高原へと送り込んだ。しかし、彼らはジャスワールのガジュ・シングに敗れた。丘陵地帯の開発はムガル帝国の君主アウラングゼーブの懸念を引き起こすこととなり、彼はシヴァリク高原におけるムガル帝国の権威を取り戻すため自身の息子が率いる軍を送り込んだ。
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