アサン海岸(朝井海岸)への上陸
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「グアムの戦い」の記事における「アサン海岸(朝井海岸)への上陸」の解説
7月21日7時に、激しい艦砲射撃と空爆に支援された上陸部隊が海岸に向け殺到した。第3海兵師団が上陸を目指したアデラップ岬とアサン岬に挟まれた全長2kmほどのアサン海岸には、独立混成第48旅団の第一大隊が守備を担当しており、上陸部隊が海岸に接近すると山砲と速射砲で砲撃を加えた、またフォンテヒル(日本軍呼称 本田台)に配備されていた第10連隊砲兵大隊も砲撃を開始し、LVT数十両を撃破したが、艦砲射撃と空爆による激しい集中砲火を浴び、次第に砲兵陣地は沈黙していった。その後に上陸してきたアメリカ軍に対し、第48旅団の第一大隊は中村大隊長自ら手榴弾を手にして白兵戦を展開するも、圧倒的な火力のアメリカ軍相手に死傷者が続出した。また、中村大隊に配属されていた旅団の工兵隊も、隊長の三宅大尉自ら爆薬を抱いて戦車に体当たり攻撃をかけ、下士官は戦車に取り付いて、ハッチから手榴弾を投げ込もうとするなど、隊員全員が激しい肉弾攻撃を行い文字通り全滅している。 アサン海岸上陸作戦については日本軍の激しい抵抗に第三海兵師団もかなりの苦戦を強いられており、砂浜で多くの死傷者を出している。片足に重傷を負いながら分隊を指揮し、他の負傷した分隊の兵士らと一晩の間、自らで掘ったたこつぼ壕で日本軍の攻撃に耐えて生還したルーサー・スキャッグス・ジュニア(英語版)上等兵はアメリカ軍の最高勲章であるメダル・オブ・オナーを受け取っている。(グアム戦でメダル・オブ・オナーを受賞したのは4名) 上陸作戦で第3海兵水陸両用部隊は47両のLVTを日本軍の攻撃で撃破され、3両が機雷で撃破されている。また、上陸初日にアメリカ軍は1,047名の死傷者を出したが、その内102名はLVTの乗組員であった。 第三海兵師団は、海岸線の日本軍抵抗を排除しながら内陸部に進んだが、砂浜からわずか200m離れた、パラソル台、砲台山、チョニト断崖、日向台、駿河台といった多くの洞窟が存在する標高200m程度の小高い山地地帯で進撃が停止した。日本軍はここに無数の後方縦深陣地を構築し、アメリカ軍を待ち構えていた。 第18連隊第3大隊(行岡大隊長)は海岸線の戦闘で大半の戦力を失っていたが、掌握していた一個中隊と重機関銃と迫撃砲で日向台上に布陣し、匍匐前進で進んできたアメリカ兵に山上から集中射撃を加えている。日本軍からは真下に見下ろすような位置関係であったため、射撃は非常に正確であり、アメリカ兵はまともに反撃もできずバタバタと斃され、多くの死傷者を放置したまま、艦砲射撃の支援を受けながら撤退していった。 アメリカ軍は縦深陣地攻略に手間取り、日本軍の地の利を得た頑強な抵抗により一進一退の攻防が続いた。日本軍も縦深陣地より出撃し、海兵隊に激しい夜襲を繰り返した。21日から22日にかけて第48旅団の2個大隊と独立混成第10連隊の2個大隊がアメリカ軍橋頭堡に対し夜襲をしかけ、一部はアメリカ軍陣地を突破したが、アメリカ軍の強力な火力の前に死傷者が続出し、橋頭堡撃滅には至らないまま壊滅状態に陥っている。アメリカ軍の夜襲対策が強化されているため、防御の利を捨て敵陣に突撃する事はいたずらに損害を増やすだけの結果となったが、この教訓は後に島嶼防衛に活かされることとなった。 一方で日中は縦深陣地で防衛する立場となった日本軍は、パラソル台で師団直轄の歩兵第38連隊第9中隊(石井中隊長)が巧みな作戦指揮で21日以降に何度もアメリカ軍を撃退していた。石井中隊長は他の部隊のように陣地よりの出撃しないように部下に徹底し、アメリカ軍が目前に近付くと効果的で正確な射撃と手榴弾投擲を加えた。中隊30名戦死に対して、アメリカ軍300名以上の損害を与えていた。 他に夜襲失敗で大損害を被っていた独立混成第10連隊の残存兵力も、パラソル台や本田台に陣取り、防衛戦と小規模な挺身斬り込みを行い、アメリカ軍をよく足止めした。この地域でのアメリカ軍の損害も大きく、バンドシュー山(日本軍呼称 パラソル台)を攻撃していたアメリカ第3海兵連隊は21日と22日の2日で615名を失い、連隊長が師団長に「手元に160名の戦力しか残っていない」と報告している。
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