アサル王家の断絶とは? わかりやすく解説

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アサル王家の断絶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 02:43 UTC 版)

スコットランド独立戦争」の記事における「アサル王家の断絶」の解説

1214年16歳王位についたアレグザンダー2世は、イングランド王ヘンリー3世の妹ジョーン結婚し1236年にはヨーク条約結んでイングランドとの国境確定したその後1249年ノルウェーからのヘブリディーズ諸島奪還目指し進軍中に死去し8歳アレグザンダー3世が跡を継いだ1255年アレグザンダー3世親政乗り出し摂政ジョン・ベイリャル (en) らを追放したまた、イングランド内紛には中立保ち内政安定保った。そうして、かねてから懸案だったノルウェー軍駆逐乗り出すことになった1261年ヘブリディーズ諸島奪還成功し1263年には西部クライド湾ノルウェー王ホーコン4世討ち破った3年後ノルウェーとの和平条約で、ヘブリディーズ諸島正式にスコットランドとなったアレグザンダー3世ヘンリー3世の娘マーガレットジョーンの姪)と結婚し、3人の子供をもうけていたが、全員先立たれた。そして1285年結婚した後妻ヨランド・ド・ドルーとの間に子供はできなかった。1286年アレグザンダー3世死去に際して長女マーガレットノルウェー王エイリーク2世ホーコン4世の孫)に嫁いでもうけた孫娘マルグレーテ王位につけるよう遺言した長老重臣たちの擁立により、3歳ノルウェー王マルグレーテスコットランド初の女王マーガレットとして即位したが、ノルウェー王宮で父王の許にとどめられた。国政合議制運営されたが、間もなく有力諸侯間の対立激しくなった。内乱続いたヘンリー3世治世下ではほとんど名目のみになっていたとはいえイングランド王ヘンリー2世以来スコットランド宗主であり、エドワード1世はこの機を生かして干渉行った。すなわち、マーガレットスコットランド呼び寄せその後イングランド王太子エドワード(後のエドワード2世)と婚約させ、スコットランドの独立保ったまま王朝連合とするというものである1289年ノルウェー発ったマーガレットの船は途中で大時化遭い9月26日オークニー島(当時ノルウェー領)へたどり着いたところでマーガレット息を引き取った。わずか7歳であった。そして、これはアサル王家終焉意味した

※この「アサル王家の断絶」の解説は、「スコットランド独立戦争」の解説の一部です。
「アサル王家の断絶」を含む「スコットランド独立戦争」の記事については、「スコットランド独立戦争」の概要を参照ください。

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