アイゼンハワーによるジャケットの考案
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「アイゼンハワージャケット」の記事における「アイゼンハワーによるジャケットの考案」の解説
アイゼンハワーは中佐としてフォート・ルイス(英語版)に勤務していた1940年にもサービスコートの問題を指摘しており、酒保(PX)付の仕立屋だったジョセフ・ローム(Joseph Rome)に依頼し、標準的なOD色ウールサージ製サービスコートを切り詰める改造を行わせている。開戦後の1942年には将軍の1人としてヨーロッパ戦線での指揮を執ることとなったが、彼は「醜く機能性でも劣る軍服が士気低迷の根源である」と信じていた。アイゼンハワーやETO高官らが示したこの信念のもと、M1943ジャケットの調達は制限され、支給も落下傘兵向けなど一部に留まっていた。 1943年3月、アイゼンハワーは専属仕立屋のマイケル・ポップ軍曹(Michael Popp)に対し、より身体にフィットして、短く、スマートに見えるようにジャケットを改造して欲しいと依頼した。ポップはイギリス製戦闘服を参考にデザインを行った。腰丈まで短くし、裾は広がらず腰にフィットするように絞られていたほか、襟と肩章の形状も変更されていた。ポケットや腰の絞りの形状が異なるものが何種類か仕立てられており、それらはアイゼンハワー自身が愛用したほか、彼が率いる幕僚たちにも支給されていた。 1943年5月5日、アイゼンハワーはジョージ・マーシャル陸軍参謀総長に宛てた書簡の中で、「より短く、スマートに見える(shorter, smarter-looking)」ようなサービスジャケットをヨーロッパ戦線向けに採用するように求めた。1944年5月には新たなジャケットが採用されたものの、新型ジャケットが制式装備、従来のサービスコートが準制式装備と位置づけられるのは11月2日になってからだった。デザインはポップが1943年に手掛けたものとよく似ており、大まかには後期パターンのETOジャケットと航空軍軽飛行服の特徴を掛け合わせたものだった。 アイゼンハワージャケットは、OD色ウール製で、コンバーチブルカラーを備え、肩パッドは洗濯可能なものだった。兵下士官用のものは内側の胸ポケットがあった。装備品や草木などが絡まないようにフライフロント仕立てで、蓋付きポケットのボタンも同様に隠されていた。腰ポケットがなくなったため、下士官兵用の軍服としてはおよそ50年ぶりに2つの内ポケットが設けられた。袖口にはシャツと同形式の調節可能な絞りがあり、また腰にも絞りを調整するためのバックルが設けられていた。将校用はレーヨン製裏地を備える以外は下士官兵用と同様だった。ただし、高級将校の中にはアイゼンハワージャケットとは別に、各々で類似の改造を施して短ジャケット風に仕立てたオーダーメイドの制服を着用する者も多かった。 1944年春の時点で、需品科は航空軍の軽飛行服やETOジャケットの改良など、4つの主要な野戦服関連のプロジェクトを進めていたが、最優先されていたのはM1943ジャケットを軸とした野戦服一式を構築することであった。そのため、需品科とETOでアイゼンハワージャケットの扱いに差が生じていた。需品科側では、M1943制服(英語版)一式を着用する際、防寒具としてM1943ジャケットの下に着用することを想定していた一方、ETO側では従来のサービスコートの代用品と位置づけており、M1943ジャケットを用いずに単独の野戦服として着用することを想定していた。また、袖が広く、背面にプリーツが設けられていたのは、セーターなどの上に重ね着することを想定していたためである。結局、サービスコートが準制式装備と位置づけられたため、実際にはアイゼンハワージャケットのみを準礼装(semidress)の一部として着用する者の方が多かった。従来のETOジャケットはアイゼンハワージャケットによって更新され、1945年までに生産が終了した。 1944年9月には50万着分のアイゼンハワージャケットの出荷準備が整ったものの、ETOからの需要に対しては不十分で、10月には不足を補うべく北極用フィールドジャケットやM1943ジャケット、あるいはサービスコートなど、雑多な上着が出荷されることになった。生産の遅れと混乱のため、1945年1月末までにETOが受領したアイゼンハワージャケットは130万着ほどで、当初予定された420万着からは程遠かった。軍装の混乱を避けるため、多くの部隊ではVEデイまでアイゼンハワージャケットの調達数を制限していたので、第二次世界大戦中に後方での勤務服以外として用いられた例は極めて少ない。ただし、ETOから引き上げた兵士に対してはアメリカ本土でも着用が認められていたほか、第3軍では試験目的で少数が支給された。 1945年6月2日には勤務服としての改良が行われたモデルが採用された。このモデルは全体的に膨らみが抑えられやや細身で、ボタンの位置などが変更されていた。1945年7月27日から調達が始まった。1946年春頃にも改良が行われた。ただし、戦時中の在庫が大量に残されていたため、新規調達は比較的少数に留まった。
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