その後に発生した戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 06:23 UTC 版)
「サビニの女たちの略奪」の記事における「その後に発生した戦争」の解説
サビニ族は好戦的でプライドが高く、城壁のない村々に住んでいて、恐れることを知らないのは当然だと考えていた。それにもかかわらず自分たちが大事な大量の人質のために縛られているのを見、また、囚われの身となった女性たちの身の上を恐れたので、ローマに対して女性たちの身柄の解放と謝罪を求める使者を派遣した。しかし要求は拒否された。ロームルスは「奴隷ではなく正式な結婚である」と主張した。娘をローマ人に誘拐婚させられ、家庭や生活を崩壊させられた親たちは涙ながらにローマの不法を詰ってまわった。これに憤慨したカエニナの王は、軍勢を率いてローマの領土に侵入した。ロームルスとローマ人たちはカエニナ軍と一戦を交え、カエニナ王を殺し、軍を敗走させ、力を欠いた怒りの空しさを悟らせた。ロームルスはその後カエニナに進軍し、最初の戦闘でこれを陥落させた。ローマに戻ったロームルスはユーピテル (Jupiter Feretrius) の神殿を建て(リウィウスによれば、ローマに建設された最初の神殿である)、カエニナ王の鎧を捧げ物 (スポリア・オピーマ) として奉献した。フォルム・ロマヌムにかつて存在したという戦勝記念碑 「凱旋式のファスティ」 によれば、ロームルスがカエニナ人に対する勝利を祝ったのは紀元前752年3月1日のことだったという。 同じころ、アンテムナエ軍がローマの領土に侵入してきた。ローマ軍はこれを迎え撃って撃破し、アンテムナエの町も征服した。「凱旋式のファスティ」 によれば、対アンテムナエ戦をローマが祝ったのも紀元前752年のことだという。 重なる勝利を祝うロームルスに対して拉致女性たちは、彼女らの親たちを宥し市民団に受入れてほしいと懇願した。願いは容易に叶った。 クルストゥメリウム軍も挑んできたが、ローマ軍はこれも撃破し町を征服した。 アンテムナエとクルスメトゥリウムにはその後ロームルスがローマから入植民を送り込み、もともとの住民の多く(特に拉致された女性たちの家族)もローマに同化されていった。 サビニ人は王ティトゥス・タティウスに率いられ、ローマとの戦争に突入した。これは遥かに重大だった。というのは、憤怒とか激情にまかせて行動をおこすことが全くなく、また、開戦まで戦いを明かさなかったからである。カピトリヌスの砦を支配していたスプリウス・タルペイウスの娘とされるタルペーイアの裏切りがあったため、タティウスのローマ攻めはほぼ成功という状況にまでなった。彼女は「サビニ人が腕につけているもの」を報酬としてもらう約束で都市の城門を彼らのために開けた。彼女はサビニ人の金の腕輪を貰えるものと思っていたが、彼らの投げつけた盾の重さで圧死させられ、タルペーイアの岩と後に名付けられた岩からその遺骸が捨てられた。 砦を占領したサビニ軍を、今度はローマ軍が攻める側となった。ローマ軍側はホストゥス・ホスティリウスが率い、サビニ軍側はメッテス・クルティウスが率いた。ホスティリウスが敗北すると、ローマ側は総崩れとなってパラティヌスの宮殿の門まで退却した。そこでロームルスは男たちを集め、パラティヌスの丘にユーピテル (Jupiter Stator) の神殿を建てることを約束し、ローマ人を戦いに引き戻した。 戦いは続いた。メッテス・クリティウスは追い詰められ、戦場から逃げ出し、ローマ軍が優位に立った。 このとき、女性たちが戦場に割って入り、両者を和解させようとした。 (彼女たちは)髪を乱れさせ、ぼろぼろの衣服で飛び道具が飛び交う中央に大胆に割って入った。両軍の間の隙間を走ってそれ以上の戦闘を止めさせようとし、一方の陣営にいる父ともう一方の陣営にいる夫に対して、義理の父または義理の息子の血でその手を汚すことで子孫に父殺しの汚名を着せ呪いをもたらさないよう懇願し、両軍の激情を鎮めようとした。「もし」と彼女たちは言う。「あなたがたがこの親類関係、結婚の絆に我慢できないなら、その怒りを私たちに向けなさい。戦争の原因は私たちであり、夫と父を傷つけ殺したのは私たちだ。私たちにとっては、あなたがたの一方を亡くし、孤児か未亡人として生き延びるくらいなら死んだほうがましだ」 「私たちが前にもみじめな不幸に会い、今またそれに会っているのは、どんなひどいこと、どんな苦しいことをあなた方に加えたからなのですか。前には今の夫たちに力ずくで無法に掠奪されました。しかも掠奪されたまま兄弟にも父親にも親類にも、こんなに長い間放っておかれたため、今では最も憎い敵と固い絆で結ばれて、かつて暴力を振るい、無法の行為をしたその人々が戦う時には恐れ、死ねば泣き悲しむ、というふうになったのです。あなたがたは、私たちが処女である間に私たちのために、私たちに不正を働いた人たちに復讐するためにここに攻め込んできたのではありません。今となっては、あなた方は夫から妻を、子供から母親を切り離すことになるだけでしょう。あなた方は今私たち惨めな女を助けようとしていますが、そんな援助は、これまでのあなた方の無配慮と裏切りよりももっと惨めなものです。私たちはこの人たちからこんなに愛されてきましたが、あなた方からはこんなに憐れまれています。もしあなた方が別の理由から戦ったのならば、私たちを通じてすでに舅となり、今は祖父となり親類となっているのですから、戦いをやめるべきであったのです。もし戦争が私たちのためであるなら、私たちを舅や子供と一緒に連れて行って、私たちに父や親戚を返してください。子供や夫を奪い取らないでください。私たちはあなた方にお願いします。またしても私たちが戦争捕虜にならないように」 こうして休戦の誓いが取り交わされ、双方の指揮者が会談に集まり、盟約が結ばれた。サビニ人はローマ人と1つの国家を形成することに合意し、ローマは領土の拡張に成功した。5年後に亡くなるまでサビニ王ティトゥス・タティウスがロームルスと共にローマを治めることになった。 新たなサビニ人居住者はカピトリヌスの丘に居住した。 ローマの人口は2倍になったので、ロームルスは人民を30のクーリア(市民団)に分けた。このクーリアの名は拉致されたサビニ人女性の名からとってつけられたという。
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