56歳とは? わかりやすく解説

5 - 6歳(1983 - 84年)

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ビクトリアクラウン」の記事における「5 - 6歳(1983 - 84年)」の解説

年が明けて5歳となり、始動戦はアメリカジョッキークラブカップで5着、1番人気に推され中山牝馬ステークスでは8着敗退。8か月休養から有馬記念出走するどしたがいずれも下位沈んだ6歳となり、再びアメリカジョッキークラブカップ出走ブービー賞7着となったのを最後に競走馬引退した

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5 - 6歳(1980 - 81年)

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カツラノハイセイコ」の記事における「5 - 6歳(1980 - 81年)」の解説

松本肺がん倒れて河内洋乗り替わり9月7日復帰戦となるサファイヤステークスは、8頭中6番人気の支持ながら2着。続く京都大賞典では3着に入った続いて天皇賞(秋)目指し東上し前哨戦目黒記念(秋)で日本ダービー以来勝利を挙げて、1番人気の支持天皇賞(秋)参戦プリテイキャスト大逃げに次ぐ2番手で進んだが、伸び欠いて6着敗退大逃げプリテイキャストそのまま逃げ切り勝利を果たした。(レースの詳細は、第82回天皇賞参照。)ファン投票1位で臨んだ12月21日有馬記念では、調教内容悪かったため3番人気甘んじた直線先頭立ったが、残り100メートル斜行してしまいホウヨウボーイハナかわされて2着に敗れた。 年をまたいで6歳は、3月8日マイラーズカップ始動し3番人気ながら勝利続いてサンケイ大阪杯不良馬場負けて6着に敗れた続いて4月29日天皇賞(春)出走食欲なくなり馬体重減少し直前調教内容悪かったために体調不安説がささやかれていた。しかし、ホウヨウボーイモンテプリンスなどが回避したため、2番人気押し上げられた。中団から最終コーナー抜け出し、外からカツアール追い上げてきた。後方との差を広げて2頭での争いとなり、馬体接触しながら競り合いカツアールクビ退けて先頭入線した。父内国産馬天皇賞優勝は、1965年春のアサホコ(父:ヒカルメイジ青森県産)以来16年ぶりであり、東京優駿日本ダービー優勝馬天皇賞制覇は、ミハルオーハクチカラシンザンタケホープ次いで5頭目のことであった庄野は「もうこんな凄い馬に巡り合うことはなでしょうね」と言い涙を流した6月7日宝塚記念ファン投票1位に選出され出走し後方からカツアール目指し追い込んだ1馬4分の1届かず、2着に敗れた。 秋はその年に創設されジャパンカップ有馬記念走り引退する予定であったが、目前9月に深管骨瘤が悪化して引退決意第1回ジャパンカップ当日11月22日京都競馬場にて河内騎乗し日本ダービー優勝時のゼッケン「7」着用し引退式が行われた。約1か月後の12月14日日本ダービーなど4歳時主戦だった松本48歳という若さ亡くなった

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5 - 6歳(2006 - 2007年)

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オペラシチー」の記事における「5 - 6歳(2006 - 2007年)」の解説

2006年初戦となったアメリカジョッキークラブカップでは3戦ぶりに佐藤コンビ組みレースでは離れた3番手を追走したが、直線では全く伸びず、0.9秒差の5着に終わる。続くダイヤモンドステークスでは終始2番手を先行する直線バテてしまい、デビュー以来最も離された2.7秒差の10着に敗れる。2005年の夏以降、5戦続けて見せ場作れないまま敗れるなど精彩欠き休養入っていたが、放牧先で骨折したため現役引退することとなり、2007年2月15日付でJRA競走馬登録を抹消された。

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5 - 6歳(1973-1974年)

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ナスノチグサ」の記事における「5 - 6歳(1973-1974年)」の解説

古馬となってからは、長期離脱することなく1ヶ月1回ペース出走続けた1973年8月新潟記念では差し決まり後方に4馬身差、レコードタイム優駿牝馬以来1年3か月ぶりの勝利となった嶋田は「オークスの時より感激です」と振り返っている。6歳となった1974年現役続行し、春から夏にかけて、安田記念関屋記念新潟記念で3着と重賞でも好走。秋初戦京王杯オータムハンデキャップでは、8頭立て6番人気の支持出走し1歳年下優駿牝馬優勝馬トウコウエルザクビ差し切り、レコードタイム優勝し8勝目となった。それからオールカマー天皇賞(秋)有馬記念と続戦するもいずれも敗れ競走馬引退した

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5-6歳(1954-1955年)

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ハクリヨウ」の記事における「5-6歳(1954-1955年)」の解説

休養後の翌1954年5歳シーズン充実期迎え3月復帰戦からいずれも2着を大きく離して連勝続ける。5月16日迎えた天皇賞(春)では、前走でレコードタイム勝利を収めていたボストニアン6度目対戦となったが、同馬に6馬身差で圧勝し現役最強馬の地位確定的なものとした。その後は秋まで休養入り復帰戦の毎日王冠チエリオボストニアンタカオーらを寄せ付けず4馬身差の圧勝、兄ニューモアナとの兄弟制覇果たした2週間後、アメリカローレルパーク競馬場から国際競走ワシントンDCインターナショナルへの招待を受ける。同競走からの日本馬招待初めてのことであり、馬主の西はこれを受諾しハクリョウ一時羽田空港送られた。しかし巨体のため飛行機での輸送が困難であることが判明船便輸送提案されたが、輸送期間が長期に及び、体調維持難しいとの判断断念結局出走見送られた。以降当年出走せず休養に入る。翌1月には当年創設の年度表彰啓衆社賞選考において、クラシック二冠ダイナナホウシュウ抑え満場一致日本競馬史上最初の年代表馬選出された。また、東京競馬記者クラブ賞受賞している。 翌1955年現役続け金杯目黒記念(春)を連勝菊花賞からの連勝記録を8に伸ばした。しかし、その後慢性の裂蹄のために休養余儀なくされる7月オープン戦復帰するも、69kgの斤量背負って3着に敗れ、これを最後に引退種牡馬入り決定した

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5-6歳(1986-87年)

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クシロキング」の記事における「5-6歳(1986-87年)」の解説

1月5日金杯(東)GIII)では、それまで主戦務めていた安田がアサカサイレントに騎乗するため、岡部幸雄乗り替わった。1番人気に支持され5番手から差し切って勝利中野は「(前略)いきなり重賞勝てるとは考えなかった」と振り返り直線差し切られ安田は、クシロキング強さに驚くほどであった2月16日目黒記念GII)では長距離戦となる2500メートル初め出走したが、レコード制したビンゴチムールに1馬4分の1差まで迫った3着となった3月9日中山記念GII)では、1番人気に支持された。直線で、先に抜け出していたトウショウペガサスを外から追い上げた結局差し切り、決勝線ではクビ先着して重賞2勝目となった続いて中野は、距離適性から長距離天皇賞(春)GI)への出走諦め京阪杯GIII)を挟んで宝塚記念GI)という中距離レース出走するローテーション計画京阪杯向けて4月13日関西移動した一時出走諦めた天皇賞(春)は、前年二冠馬有力視されていたミホシンザン骨折により回避していた。中野は、代わって有力視されたのがスダホークであることからクシロキング勝機があると判断加えて体調、状態ともに良好であり、騎乗する岡部には、距離不安を克服するだけの力量があると考えていたため、クシロキング一転天皇賞(春)出走することが決定した4月29日天皇賞(春)は、により重馬場であったスダホークが1番人気に推され単枠指定制度対象となる一方3番人気出走したスタートから最後方に位置し、すぐ外のスダホーク並んで後方待機。2周目の第3コーナー追い上げ先頭から3番手まで進出、その外からスダホーク先頭窺っていた。最終コーナー差し掛かると、スダホーク失速クシロキングも前2頭を外から捕らえようとしたが、単独先頭のメジロトーマスがしぶとく、すぐにはかわせなかった。そこで岡部ムチ入れると、クシロキング再加速。ようやくメジロトーマスを差し切り、4分の3馬身差をつけて先頭入線した。クシロキングにとって初のGI制覇天皇賞であり、中野1978年春をグリーングラス制して以来天皇賞制覇となった上山牧場は、1976年春に生産馬ロングホーククビ差の2着に敗れて以降待望天皇賞制覇であった中野岡部騎乗を「完璧」と評している一方岡部はこう述懐している。 この馬に合ったレースをしようとそれだけ心掛けていました前半は力をセーブして、後半1600メートル賭けました。それが巧くいったが、こうしたレースはいつもできるとは限らないもう一度乗れと言われても同じ騎乗できないでしょうね。 — 岡部幸雄 なお、2着のメジロトーマスが11番人気低評価であったことから、連勝複式天皇賞史上高配当となる1万4480円であったその後、距離を短縮した宝塚記念では1番人気に推されるも7着敗退。秋古馬三冠競走完走したものの、敗れた6歳になって現役続行しGIIでは好走するも勝利には至らず連覇狙った天皇賞(春)は5着敗退宝塚記念8着敗退後、函館競馬場休養した右前屈腱炎発症した温泉による治療患部癒えて年末有馬記念GI)で復帰柴田善臣乗り替わりブービー15番人気出走し9着に敗れた出走後、両前脚の屈腱炎悪化したため、競走馬引退決定した1988年1月24日中山競馬場引退式が行われた。

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5-6歳(1987-1988年)

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ダイナアクトレス」の記事における「5-6歳(1987-1988年)」の解説

半年休養経て復帰戦・京王杯スプリングカップでは9番人気という評価だったが、ニッポーテイオーの2着と好走する。続くGI安田記念では、苦手の重馬場ながら5着と健闘し健在を示す。しかし1番人気に推され阪急杯では騎手との折り合い欠き14着と大敗した。 秋初戦京王杯オータムハンデキャップで、騎手岡部幸雄乗り代わるダイナアクトレスはこのレースで、1分32秒2という1600メートル世界タイレコード(当時)を記録し、約2年振り勝利を挙げた。続く天皇賞(秋)前哨戦毎日王冠でも牡馬一線級を降して重賞2連勝を飾る。しかし本番天皇賞では重馬場を苦にして8着と敗れた。 次走はジャパンカップ向かったが、古馬筆頭格であるニッポーテイオーマイルチャンピオンシップ向かったほか、メリーナイスサクラスターオーといった4歳クラシック優勝馬もこれを回避したため、上位人気外国馬独占しダイナアクトレスは9番人気という評価になった。しかし後方待機から直線追い込み、1番人気のトリプティクなどを抑えて日本馬最先着となる3着となった2番人気推され有馬記念では7着に敗れるが、牡馬混じって通年活躍評価され当年の最優秀5歳以上牝馬選出、母仔二代の年度表彰受賞となった翌年現役続行し3月スプリンターズステークス当時GII)を勝利続いて前年ニッポーテイオー敗れた京王杯スプリングカップを、今度は同馬を破って勝利する。しかし安田記念では再びニッポーテイオーの2着に敗れた秋になって第39回毎日王冠から始動するも、発走直前シリウスシンボリに蹴飛ばされるというアクシデントもあり、オグリキャップの5着に敗れた天皇賞タマモクロスの4着と好走その後2年連続ジャパンカップ出走予定されていたが、脚部疲労見られたため、この競走最後に競走馬引退となったこの年重賞2勝、GI競走の2着1回という成績で、年明けには2年連続の最優秀5歳以上牝馬選出された。

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5-6歳(1981-82年)

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サクラシンゲキ」の記事における「5-6歳(1981-82年)」の解説

1月25日ダートオープン競走3着を叩き台として、2月22日スプリンターズステークス出走単枠指定制度対象となる中、1番人気に推された。逃げ出て先頭直線に入ると、再び加速後方に6馬身差をつけて先頭入線して勝利した騎乗した東は「僕はただつかまっていただけです。今のサクラシンゲキならだれが乗って勝てますね」と振り返っていた。その後4月26日京王杯スプリングハンデキャップでは、残り200メートルでシンボリフレンドにかわされて2着敗退6月7日安田記念では、トップハンデを担ったが、タケデンとジュウジアローかわされ3着敗退どちらも1番人気に推されたが、2連敗となった夏休みの後、9月6日京王杯オータムハンデ復帰。1番人気に推され変わらず逃げ出て失速することなく逃げ切り果たした。外から追い上げたメジロクラウンをアタマ退けて勝利2連覇果たした10月17日オープン競走でも逃げ切り勝利を果たすと、第1回ジャパンカップ日本代表選出された。 ジャパンカップ参戦に当たり、騎乗する小島は「たとえ勝てなくても日本快速馬の面目をかけてハナ切っていく」と逃げ宣言カナダ代表これまで出走したすべてでハナを切るブライドルパースとの逃げ対決となったスタートから先手主張するブライドルパースを抑え単独飛ばし前半1000メートルを57.8秒で通過するなど、超ハイペース刻んだ最後直線入って先頭であり続け直線中間アメリカ代表メアジードーツカナダ代表フロストキングなどにかわされたものの9着となったホウヨウボーイモンテプリンスなど日本代表凡走ぶりに対してハイペース豪快に逃げ外国調教馬相手食い下がった唯一の日本代表としてサクラシンゲキ称賛集まり日の丸特攻隊」と表された。続いて有馬記念出走し、再び逃げたものの、直線伸びず9着に敗れたスプリンターズステークス制した成績面に、逃げたジャパンカップという話題性加えて年度代表馬選考委員会から優駿賞スプリンター賞が進呈された。 6歳現役続行し連覇狙ってスプリンターズステークス始動単枠指定の1番人気に支持され逃げ出た桜花賞優勝馬ブロケードかわされ2着敗退マイラーズカップでも単枠指定の1番人気の支持だったが、カズシゲにクビかわされ再び2着に敗退。続く宝塚記念でも8着となった夏休みの後、調整続けてシーズンを戦うはずだったが、静内町牧場サクラシンゲキ種牡馬シンジケート結成したため、10月初旬引退発表10月31日天皇賞(秋)当日東京競馬場昼休み引退式が行われた。1980年京王杯オータムハンデキャップ優勝時のゼッケン10」を着用し小島太騎乗し直線コース600メートル駆け中でも最後200メートル10.8秒で走った

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5-6歳(1989-90年)

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ヤエノムテキ」の記事における「5-6歳(1989-90年)」の解説

古馬となり、2200メートル日経新春杯GII)2着と敗れた後、荻野適性2000メートルであると突き止め2000メートル戻って産経大阪杯GII)に参戦3番手から最後直線進入し先行するランドヒリュウゴールドシチー差し切り、3馬身半差を離して勝利した前哨戦経ず宝塚記念GI)に1番人気で出走したが、2番人気イナリワン勝利し、その1.6秒遅れた7着に敗れた秋に調整失敗もあってぶっつけ天皇賞(秋)GI)に挑むも4着、有馬記念は6着に終わった年明け6歳となって日経新春杯2着、マイラーズカップGII)3着、産経大阪杯3着と勝ちきれない競馬続いた安田記念GI)からはそれまで主戦だった西浦から岡部幸雄乗り替わって参戦したが2着、宝塚記念は3着とGIでも上位になるも勝利を挙げることができなかった。 前年同じく宝塚記念からぶっつけ天皇賞(秋)参戦7番からスタートすると中団の内側追走直線では内を突いて残り400メートル先頭に立つと、最後メジロアルダン急襲アタマ抑えて優勝サクラユタカオー保持していたコースレコード上回るタイム走破し、GI2勝目飾った。(レースに関する詳細は、第102回天皇賞を参照。)続くジャパンカップGI)では6着(レースに関する詳細は、第10回ジャパンカップ参照)、引退レースとなる有馬記念出走ヤエノムテキ本馬場入場直後放馬馬体に異常無しとしてレースには出走したものの7着に敗れ現役生活終えた

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5-6歳(2002-03年)

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ダンツフレーム」の記事における「5-6歳(2002-03年)」の解説

古馬となった2002年春に放牧から帰還天皇賞(春)ではなく目標中距離定め安田記念および宝塚記念出走計画した5月12日京王杯スプリングカップGII)で始動池添謙一騎乗し4着。池添が続投し、安田記念GI)に出走した香港クイーンエリザベス2世カップ優勝から臨むエイシンプレストンが2.9倍の1番人気、ダンツフレームは、それに次いで6.2倍の2番人気支持された。良いスタート切ったが、位置下げて後方待機直線では外に持ち出した先行し先に抜け出した7番人気アドマイヤコジーン目がけて追い上げ開始ゴール直前ではアドマイヤコジーンの外に並びかけた。しかしクビ及ばず、GI3度目の2着となった続いて6月23日宝塚記念GI)に出走藤田三度乗り替わった藤田は、山内に対して自ら騎乗志願。この時期通常函館競馬場滞在していたが、この日のみ阪神競馬場参戦した。「出走していれば間違いなく1番人になったであろう」(優駿編集部であったジャングルポケット脚部不安同年天皇賞(春)勝利したマンハッタンカフェ凱旋門賞挑戦産経大阪杯勝利したサンライズペガサス体調不良のためことごとく回避。また参戦したメンバーで、唯一GI優勝経験のある二冠馬エアシャカールいたものの、1年以上勝利のない状態にあったそんな中ダンツフレーム単勝オッズ2.4倍の1番人気に推された。以下、2.9倍のエアシャカール、8.9倍のローエングリン、9.3倍のツルマルボーイ続いたローエングリン逃げる中、ダンツフレームエアシャカール並んだ3、4番手位置そのまま直線入りローエングリン後方との差を広げ、しばらく先頭保持内側進んだエアシャカール伸び欠いた一方ダンツフレームは外に持ち出し後方待機から大外進んだツルマルボーイとともに並んで追い上げ開始。やがてローエングリン捉えてツルマルボーイとの競り合いとなり、ダンツフレームクビ制して先頭入線した。GI勝利山元ならびに山内1995年ダンツシアトル以来宝塚記念2勝目となった。それからカタオカステーブルにて夏休み過ごし、秋は毎日王冠GII)で始動して5着。以降天皇賞(秋)GI)は自身初の二桁着順となる14着、マイルチャンピオンシップGI)ではブービー賞17着となり、休養となった6歳となった2003年は、マイラーズカップGII)および天皇賞(春)出走しどちらも入着続いて「おそらく陣営はここを花道みなしていたのだろう」(阿部)と新潟競馬場ハンデキャップ競走である新潟大賞典GIII)に出走ハンデ戦負担重量は59kgに設定されたが、1番人気の支持2番人気のタフネススターに1馬身半差をつけて、宝塚記念以来勝利を挙げた結局その後現役続行し安田記念で5着、連覇がかかる宝塚記念では7着。夏休み経て秋は、オールカマーGII)で復帰する予定だったが、右前脚の浅屈腱炎発症して競走馬引退決定9月24日付でJRA競走馬登録を抹消したその後は、北海道静内町のヤマダステーブルで種牡馬となるとされていた。

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5-6歳(2006-07年)

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スイープトウショウ」の記事における「5-6歳(2006-07年)」の解説

エリザベス女王杯以後放牧出され、年をまたいだ5歳となった2006年は、春に新設され東京マイル牝馬限定GI競走ヴィクトリアマイルJpnI)を目指した。3月上旬に帰厩して調整進んでいたが、4月4日調教中に故障する全治3か月となる左第2中手骨骨折となり、春は全休となったその後トレーニングセンター厩舎残ったまま治療施された。7月初旬から運動再開する10月8日京都大賞典GII)で復帰するダービー2着の4歳馬インティライミ2.1倍の1番人気、スイープトウショウはそれに次ぐ5.1倍の2番人気だった。正しくスタートして中団に位置する逃げ馬がおらず、これまで好位差しローゼンクロイツ逃げることになり、前半1000メートルを64.1秒で通過するスローペースとなった馬群の中の7番手で直線向いたスイープトウショウは、末脚発揮し、前を行く2頭の間から抜け出した5番人気トウショウナイト7番人気ファストタテヤマ追い込んで来たが、それらに4分の3馬身差をつけて先頭入線する。重賞6勝目1995年ヒシアマゾン以来となる牝馬京都大賞典優勝また、328日の長期休養明け重賞勝利は、史上第5位の記録となったその後天皇賞(秋)を3.9倍の1番人気で臨み、中団後方から追い込み5着まで。続くエリザベス女王杯では、3歳牝馬カワカミプリンセスに1番人気を譲る2番人気支持後方待機から大外持ち出して追い上げたが、内を突いたカワカミプリンセス、中団差しフサイチパンドラ捉えることができず3位入線。1位入線カワカミプリンセスヤマニンシュクル走行妨害したため降着処分となり繰り上がりフサイチパンドラクビ差の2着となったその後有馬記念は、後方追走のまま力尽き10敗退となる。 6歳となった2007年現役続行しマイラーズカップGII)で始動し2着。ヴィクトリアマイルは9着。続く宝塚記念は、厩舎暴れて後脚打撲し回避した。夏を越して、秋は京都大賞典復帰する予定だったが、調教嫌がって仕上がらず回避スワンステークスGII)で復帰しスーパーホーネット敗れて4着。続くエリザベス女王杯は、3歳牝馬ダイワスカーレット敗れて3着となる。エリザベス女王杯最後に引退決定11月23日付でJRA競走馬登録を抹消する

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5-6歳(1990-91年)

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オサイチジョージ」の記事における「5-6歳(1990-91年)」の解説

5歳となった1990年は、1月5日金杯(西)GIII)で始動前年JRA賞最優秀スプリンターであるバンブーメモリー口角癤のために出走取り消しオサイチジョージ人気集中2.2倍の1番人であったスタートから先行して、好位の5番手を追走第3コーナーから最終コーナーにかけて位置上げ直線に向くと同時に先頭立った以降4番人気のサツキオアシスが迫った先頭守りきり、4分の3馬身差をつけて入線重賞3勝目となったその後土門は、京都記念あるいはマイラーズカップ走り産経大阪杯目指すというローテーション組んでいたが、調整過程熱発したため1週間休養。そのため、当初の予定に間に合わず3月18日中京記念GIII)から産経大阪杯進んだ中京記念は、トップハンデを背負い、2.4倍の1番人気で出走スタートから先行して4、5番手の好位に位置直線では、勝負所進路失い大外持ち出してから追い込んだ13番人気タニノスイセイが先に抜け出していたが、それをゴール寸前差し切り、アタマ先着重賞連勝重賞4勝目となった。それから4月1日産経大阪杯GII)は、2番人気出走、9頭中4番手の中団に位置した2番手の1番人スーパークリークに、第3コーナーから並びかけて先頭狙ったが、かわすことはできず、4分の3馬身差の2着。続く5月13日安田記念GI)は、2番人気出走。中団から追い込んだが、前を行くオグリキャップ届かず、2馬身以上離された3着となった6月10日宝塚記念GI)に出走安田記念優勝から臨むオグリキャップと、前年有馬記念優勝馬天皇賞(春)2着のイナリワン単枠指定となり、オグリキャップ1.2倍、イナリワン4.7倍に支持され、続く3番人気、11.4倍がオサイチジョージであった出走前丸山は、安田記念オグリキャップ後方から追い上げる戦法をとって敵わなかった経験と、今回オグリキャップ後方待機から追い込むイナリワン警戒するだろうから、早めに先行馬を捉えようとしないだろうという推測、それに馬場前日によって湿りがちであることに着目勝利のために、積極的に先行しオグリキャップより前に位置取ることを決意した発馬直後から先行しオグリキャップ前方をとり、逃げシンウインドに次ぐ2番手を確保オグリキャップは、オサイチジョージ背後である3、4番手イナリワン後方位置したオサイチジョージは、2番手を保って向こう正面第3コーナー通過最終コーナー失速するシンウインドに代わって先頭となり、直線では追われる立場となった。しかし、オグリキャップイナリワン追い上げ見られず、独走後方に3馬身半差をつけて入線し、GI勝利丸山にとっても初めてのGI優勝であったまた、大塚牧場は、エイトクラウンナオキ続いて3頭目となる、生産馬宝塚記念優勝であった当日は、阪神競馬場数年にわたる全面改修直前の、最終開催日であり、さらにオグリキャップ関西地区ラストラン明言されていた結果宝塚記念史上最高の約86千人来場していた。そして迎えた宝塚記念オグリキャップ敗戦と、オサイチジョージ勝利という結末に、場内は「しばらくの沈黙」(優駿)があったという。 以降、秋は毎日王冠GII)から始動し古馬GI3競走出走するも、最高着順は4着。5歳となった1991年は、4戦走って4連敗有馬記念で8着に敗れたのがラストランとなった

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5-6歳(2010-2011年)

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アドマイヤコマンド」の記事における「5-6歳(2010-2011年)」の解説

長期休養終えて2010年1月24日アメリカジョッキークラブカップ復帰。先団でレース進めた失速し12着と大敗した。続く2月20日京都記念では好位追走伸び切れず9着に終わった。続く3月21日六甲ステークスも前走同様の競馬で5着に敗れた。続く4月11日福島民報杯ではブービー15着と大敗した。続く5月9日都大路ステークスでは3番追走から追い上げてくるも軽快逃げシルポート捉えきれず2着に敗れた長期休養終えて2011年10月2日ポートアイランドステークス復帰した最下位15着に敗れた。続く11月12日のアンドロメダステークスでは2番手に控えるも直線一杯になり10着に敗れたファイナルステークスでは中位追走から追い上げるも5着に敗れた

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5-6歳(1982-1983年)

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メジロティターン」の記事における「5-6歳(1982-1983年)」の解説

軽度骨折であったため1月には調教再開春の天皇賞目標据えた。しかし出走態勢整わず復帰4月アルゼンチン共和国杯まで遅れた。この復帰戦を6着と敗れると、陣営同月29日天皇賞断念日経賞向かった当日は初勝利以来の1番人気に支持されると、後方から最後直線だけで2着を10馬身突き離して圧勝した。次走に迎えた春のグランプリ宝塚記念では、天皇賞制したモンテプリンスに次ぐ2番人気支持される。しかし直線で全く伸びず、9着と大敗喫したメジロ牧場で2ヶ月休養の後、函館記念復帰。ここを6着と敗れると、続くオールカマー毎日王冠それぞれ5着と精彩欠いたこの頃ティターン評価は、「負ける時は呆気なく、勝つ時は圧勝する潜在能力は高いが気まぐれな馬」といったものであった10月31日天皇賞(秋)迎え当日は各馬の評価拮抗する中で4番人気であったレースペース緩急激しく入れ替わる中、内埒沿いの中団6番手を進む。鞍上伊藤周回2周目の第3コーナー目標としたキョウエイプロミスの脚が鈍っていることを見て取りこの位置からロングスパートを仕掛けたティターン直線入り口先頭に立つと、そのまま500m直線逃げ切りヒカリデュール1馬身半差で八大競走制覇果たした走破タイム317秒9は、前年優勝馬ホウヨウボーイ記録を1秒更新する日本レコードであった北野にとって自家生産馬による初めての天皇賞制覇であり大い喜んだ北野競走後メジロ牧場の全従業員に高級スーツ仕立てて贈ったという。またティターン伊藤、盛次のいずれにとってもそれぞれアサマ、正四郎藤吉に続く父子制覇となった年末には有馬記念出走2番人気支持されるも、ヒカリデュールの8着に終わった当年、年度表彰父内国産馬対象とする新部門が創設されティターン初代の最優秀父内国産馬選出された。 翌1983年出走続けたが8戦全敗終わり有馬記念の6着を最後に競走生活から引退翌年1月15日アンバーシャダイ合同での引退式が行われた後、種牡馬入りのため北海道へ戻った

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5-6歳(1974-75年)

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カミノテシオ」の記事における「5-6歳(1974-75年)」の解説

1974年7月14日新潟競馬場BSN杯で復帰し12頭立て10番人気ながら4着。その後京王杯オータムハンデでは、スガノホマレ日本レコード制する中3着。毎日王冠でも3着となるなど重賞でも好走するようになった11月3日目黒記念(秋)では、初め2500メートル出走したが1番人気に推され1馬身4分の3差で2着となった11月14日天皇賞(秋)5番人気支持出走直線イチフジイサミとともに内を突いて抜け出し、2頭並んで競り合いとなったが、イチフジイサミに半馬身先着して優勝した騎乗した加賀は「(前略折り合いもついたし、直線で内にヨレたが、あれは仕方がないダービーうっぷん晴らせホッとしましたよ〔ママ〕」と述懐タカマガハラアサホコベルワイド続いて天皇賞4勝目挙げた天皇賞以降6歳でも現役続行したが、勝利を挙げられなかった。一時休養してまで再起試みたものの出走することなく1976年末に競走馬引退した

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5-6歳(2013-2014年)

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ミトラ (競走馬)」の記事における「5-6歳(2013-2014年)」の解説

初戦のニューイヤーステークスは好位から先頭に立ち優勝するが、初重賞参戦となった阪急杯14着と惨敗してしまう。この後、約1年4ヶ月休養挟み復帰レースの得意とする東京のパラダイスステークスで1着となり、早々にオープン2勝目挙げるその後関屋記念10着と惨敗するも、京成杯オータムハンデキャップでは3着と初の重賞での複勝圏内入りを果たす。富士ステークス6着を経て、初の2000m戦となった福島記念短期免許来日中のミカエル・バルザローナ騎乗レースでは好位のイン追走し、ロスなく外に持ち出して並びかけ抜け出し、2着に1馬身1/4差をつけて1着、重賞初制覇果たした

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5-6歳(1991-92年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 06:29 UTC 版)

メジロライアン」の記事における「5-6歳(1991-92年)」の解説

5歳となった1991年は、3月10日中山記念GII)から始動単勝オッズ1.4倍の1番人気で出走しスローペース逃げたユキノサンライズ捉えきれず2着。この間熱発となったが、4月28日天皇賞(春)GI)に出走メジロライアン加えメジロマックイーンホワイトストーン単枠指定制度対象となり、史上2例目の単3頭は、前年までイナリワンオグリキャップスーパークリーク形成した平成三強なぞらえて新三強」とも呼ばれた人気も3頭に集中しメジロマックイーンメジロライアンホワイトストーンの順となり、この3頭のみがオッズ一桁であった最内から発走後方位置メジロパーマー逃げてスローペース作りメジロマックイーン5、6番手メジロライアン後方から数えて3、4番手であった。2周目の第3コーナーからは、メジロマックイーンが好位からスムーズに進路確保する一方メジロライアン馬群から抜け出せずに追い遅れた直線では既にメジロマックイーン抜け出していて敵わず、2位争いとなったが、7番人気ミスターアダムスと12番人気オースミシャダイ先着されて4着となった続いて6月9日阪神競馬場改修工事のため京都競馬場代替された宝塚記念GI)に出走。「新三強」が再び揃ったが、メジロマックイーンだけが単枠指定制度対象となった人気は、メジロマックイーン単勝オッズ1倍台。メジロライアンホワイトストーンオッズ4倍台であったスタートから中団で1周目ゴール板通過。第1コーナーから2コーナーにかけて、他の馬接触し行きたがる仕草見せたが、横山はそれを妨げず位置上げさせ、向こう正面3番手で追走した。第3コーナー坂の下り逃げるイイデサターンや、2番手のホワイトストーン並びかけてかわし、最終コーナー単独先頭通過直線では、馬場の悪い内側避けて外を回り後続突き放しかかった大外から追い込むメジロマックイーン1馬身半差をつけて先頭入線、GI6度目の出走で初勝利となったまた、2着はメジロマックイーンとなり、1971年優勝馬メジロムサシ、2着メジロアサマ以来20年ぶりとなるメジロ系列による1着2着独占となった横山は、ウイニングラン終えて退場する際に、ヘルメットをとってスタンド一礼横山にとっては、父の横山富雄前出メジロムサシ騎乗し勝利を挙げており、父子二代宝塚記念優勝成し遂げている。 その後は、夏休み函館競馬場過ごしたが、調教中に軽い脚部不安右前脚の屈腱炎発症暮れファン投票で4位となる114216票を集めて有馬記念復帰する12着、1992年1月アメリカジョッキークラブカップGII)でも6着となり、連敗とした。3月22日日経賞GII)は、重馬場出走。中団から、位置上げながら追走し、最終コーナー先頭通過直線では進路を、一般に馬場状態が悪いとされる内側選択し突き放した後方に2馬身半差をつけて入線重賞4勝目10カ月ぶりの勝利を挙げた横山は「第9レース乗った時に馬場状態は内も外も同じくらい悪く、むしろ内の方が馬場締まっていたから、思い切ってイン走ってやろうと考えていたんです。それに、(メジロライアン道悪がうまいので、他馬が気にするぶん有利と判断したですよ。」と回顧している。 その後屈腱炎再発し、再び休養天皇賞(秋)目指す復帰することなく競走馬引退した10月25日東京競馬場引退式が行われ、宝塚記念優勝時のゼッケン「1」を着用しスタンド前を走行した

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5-6歳(1984-1985年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:27 UTC 版)

シャダイソフィア」の記事における「5-6歳(1984-1985年)」の解説

5歳以降短距離からマイル1600メートル路線中心に進んだが、春シーズンは、安田記念宝塚記念それぞれハッピープログレスカツラギエースの9着と大敗するなど不調であった。夏の休養はさんでの秋初戦となったスワンステークスで、レコード勝ちしたニホンピロウイナーから7馬身差ながら2着に入るなど復調気配見せたが、マイルチャンピオンシップニホンピロウイナーの4着、続くCBC賞は、ハッピープログレスに半馬身及ばず2着と、牡馬一線相手には敵わず、この年は7戦未勝利終わった。 翌1985年シャダイソフィア6歳となったが、馬体それほど消耗見られなかったため、現役続行の道が取られた。緒戦の2走は凡走したが、3月マイルオープン特別戦・コーラルステークスで約1年4カ月ぶりの勝利を挙げたこの後2戦をはさみ、河内洋を背に阪急杯出走負担重量56.5キログラム牝馬ながらトップハンデだったが、1分21秒9という好タイムでドミナスローズに2馬身半差をつけて勝利した。これを受け、秋の目標前年4着のマイルチャンピオンシップ据えられた。 夏は例年通り故郷牧場休養した後、マイルチャンピオンシップへの前哨戦としてスワンステークス京都競馬場)に出走した短距離路線筆頭格であったニホンピロウイナー同日東京競馬場開催天皇賞(秋)回っていたこともあり、休み明けながら1番人気に推された。吉田善哉・照哉はこれを観戦するため京都にいたが、このレース開始前には天皇賞社台レースホースギャロップダイナが「皇帝」と呼ばれた圧倒的1番人気のシンボリルドルフを破る金星挙げていた。 天皇賞の後にスワンステークス発走すると、シャダイソフィアは好スタートから先行争い加わった、しかし直後に外からローラーキングに押圧され、内のオサイチボーイと挟まれ逃げ場を失う形となり、オサイチ共々転倒した転倒から立ち上がったシャダイソフィア京都競馬場内の診療所運ばれたが、第1指関節開放脱臼予後不良宣告され安楽死措置がとられた。薬殺現場には吉田善哉立会い目頭をおさえながら、シャダイソフィアの顔に白いハンカチ被せたという。 牧場に「シャダイソフィア予後不良」の連絡届いたのは、「ギャロップダイナ優勝祝賀パーティー」の最中であった吉田善哉天皇賞シンボリルドルフ勝たれところを見たくなかったために京都回り事故遭遇した。後に作家吉川良に対して、「ギャロップダイナ勝ったが、わたしが逃げたもんだからソフィアがあんなことになっちゃったね。ひとつ勲章もらったけど、前科ももらっちゃった」と語ったという。吉田1993年死去したが、そのにはシャダイソフィアたてがみ一緒に納められた。

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5-6歳 (1991年-1992年)

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レッツゴーターキン」の記事における「5-6歳 (1991年-1992年)」の解説

古馬になると初戦小倉大賞典重賞初勝利挙げ続く中京記念制し重賞連勝する。しかしその後不振に陥り7戦連続惨敗喫してしまう。 騎手大崎昭一変え心機一転した谷川岳ステークスでは単勝7番人気制し実に13か月ぶりに勝利するこの後引退まで大崎手綱握ることになる。新潟大賞典では惨敗してしまうもののテレビ愛知賞では2着、1戦はさんだ後の北九州記念小倉記念連続で2着し勝てないものの確実に復活の兆し見せていた。続く福島民報杯でその年2勝目挙げる陣営天皇賞(秋)参戦決意する迎えた天皇賞(秋)では前走を勝利したとはいえトウカイテイオーナイスネイチャなどの一線級に比べる明らかに評価劣っており、単勝11番人気甘んじていた。が、いざレースがはじまるとダイタクヘリオスメジロパーマー作り出すハイペースの中、後方待機をする。直線に向くとメジロパーマーダイタクヘリオストウカイテイオー交わして先頭に立つが、そのトウカイテイオーも中団で脚を溜めていたナイスネイチャ差され、さらにまとめてその外からレッツゴーターキンムービースターヤマニングローバル揃って差し込み最後ムービースター1馬身半抑えて優勝。この勝利橋口調教師のG1初勝利であり、大崎にとっては最後のG1勝利であった単勝11番人気レッツゴーターキン単勝5番人気ムービースターという組み合わせ馬連は実に1万7220円の大波乱東京競馬場騒然としていた。

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