5 - 6歳(1983 - 84年)
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「ビクトリアクラウン」の記事における「5 - 6歳(1983 - 84年)」の解説
年が明けて5歳となり、始動戦はアメリカジョッキークラブカップで5着、1番人気に推された中山牝馬ステークスでは8着敗退。8か月の休養から有馬記念に出走するなどしたが、いずれも下位に沈んだ。 6歳となり、再びアメリカジョッキークラブカップに出走。ブービー賞7着となったのを最後に競走馬を引退した。
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5 - 6歳(1980 - 81年)
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「カツラノハイセイコ」の記事における「5 - 6歳(1980 - 81年)」の解説
松本が肺がんに倒れて河内洋に乗り替わり、9月7日の復帰戦となるサファイヤステークスは、8頭中6番人気の支持ながら2着。続く京都大賞典では3着に入った。 続いて天皇賞(秋)を目指して東上し、前哨戦の目黒記念(秋)で日本ダービー以来の勝利を挙げて、1番人気の支持で天皇賞(秋)に参戦。プリテイキャストの大逃げに次ぐ2番手で進んだが、伸びを欠いて6着敗退、大逃げのプリテイキャストがそのまま逃げ切り勝利を果たした。(レースの詳細は、第82回天皇賞を参照。)ファン投票1位で臨んだ12月21日の有馬記念では、調教の内容が悪かったため3番人気に甘んじた。直線で先頭に立ったが、残り100メートルで斜行してしまいホウヨウボーイにハナ差かわされて2着に敗れた。 年をまたいで6歳は、3月8日のマイラーズカップで始動し、3番人気ながら勝利。続いて、サンケイ大阪杯は不良馬場に負けて6着に敗れた。 続いて、4月29日の天皇賞(春)に出走。食欲がなくなり馬体重が減少し、直前の調教の内容が悪かったために体調不安説がささやかれていた。しかし、ホウヨウボーイやモンテプリンスなどが回避したため、2番人気に押し上げられた。中団から最終コーナーで抜け出し、外からカツアールが追い上げてきた。後方との差を広げて2頭での争いとなり、馬体を接触しながら競り合い、カツアールをクビ差退けて先頭で入線した。父内国産馬の天皇賞優勝は、1965年春のアサホコ(父:ヒカルメイジ(青森県産)以来16年ぶりであり、東京優駿(日本ダービー)優勝馬の天皇賞制覇は、ミハルオー、ハクチカラ、シンザン、タケホープに次いで5頭目のことであった。庄野は「もうこんな凄い馬に巡り合うことはないでしょうね」と言い涙を流した。 6月7日、宝塚記念はファン投票1位に選出されて出走し、後方からカツアールを目指して追い込んだが1馬身4分の1届かず、2着に敗れた。 秋はその年に創設されたジャパンカップ、有馬記念を走り引退する予定であったが、目前の9月に深管骨瘤が悪化して引退を決意。第1回ジャパンカップ当日の11月22日、京都競馬場にて河内が騎乗し、日本ダービー優勝時のゼッケン「7」を着用し引退式が行われた。約1か月後の12月14日、日本ダービーなど4歳時の主戦だった松本が48歳という若さで亡くなった。
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5 - 6歳(2006 - 2007年)
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「オペラシチー」の記事における「5 - 6歳(2006 - 2007年)」の解説
2006年の初戦となったアメリカジョッキークラブカップでは3戦ぶりに佐藤とコンビを組み、レースでは離れた3番手を追走したが、直線では全く伸びず、0.9秒差の5着に終わる。続くダイヤモンドステークスでは終始2番手を先行するも直線でバテてしまい、デビュー以来最も離された2.7秒差の10着に敗れる。2005年の夏以降、5戦続けて見せ場を作れないまま敗れるなど精彩を欠き、休養に入っていたが、放牧先で骨折したため現役を引退することとなり、2007年2月15日付でJRAの競走馬登録を抹消された。
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5 - 6歳(1973-1974年)
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「ナスノチグサ」の記事における「5 - 6歳(1973-1974年)」の解説
古馬となってからは、長期離脱することなく1ヶ月に1回のペースで出走を続けた。1973年8月の新潟記念では差しが決まり、後方に4馬身差、レコードタイムで優駿牝馬以来1年3か月ぶりの勝利となった。嶋田は「オークスの時より感激です」と振り返っている。6歳となった1974年も現役を続行し、春から夏にかけて、安田記念、関屋記念、新潟記念で3着と重賞でも好走。秋初戦の京王杯オータムハンデキャップでは、8頭立て6番人気の支持で出走し、1歳年下の優駿牝馬優勝馬トウコウエルザをクビ差差し切り、レコードタイムで優勝し8勝目となった。それからオールカマー、天皇賞(秋)、有馬記念と続戦するもいずれも敗れ、競走馬を引退した。
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5-6歳(1954-1955年)
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「ハクリヨウ」の記事における「5-6歳(1954-1955年)」の解説
休養後の翌1954年、5歳シーズンは充実期を迎え、3月の復帰戦からいずれも2着を大きく離しての連勝を続ける。5月16日に迎えた天皇賞(春)では、前走でレコードタイム勝利を収めていたボストニアンと6度目の対戦となったが、同馬に6馬身差で圧勝し、現役最強馬の地位を確定的なものとした。その後は秋まで休養に入り、復帰戦の毎日王冠でチエリオ、ボストニアン、タカオーらを寄せ付けず4馬身差の圧勝、兄ニューモアナとの兄弟制覇を果たした。 2週間後、アメリカのローレルパーク競馬場から国際競走ワシントンDCインターナショナルへの招待を受ける。同競走からの日本馬の招待は初めてのことであり、馬主の西はこれを受諾し、ハクリョウは一時羽田空港へ送られた。しかし巨体のため飛行機での輸送が困難であることが判明、船便輸送も提案されたが、輸送期間が長期に及び、体調維持が難しいとの判断で断念。結局出走は見送られた。以降、当年は出走せず休養に入る。翌1月には当年創設の年度表彰「啓衆社賞」選考において、クラシック二冠馬ダイナナホウシュウを抑え、満場一致で日本競馬史上最初の年度代表馬に選出された。また、東京競馬記者クラブ賞も受賞している。 翌1955年も現役を続け、金杯と目黒記念(春)を連勝、菊花賞からの連勝記録を8に伸ばした。しかし、その後は慢性の裂蹄のために休養を余儀なくされる。7月のオープン戦で復帰するも、69kgの斤量を背負って3着に敗れ、これを最後に引退・種牡馬入りが決定した。
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5-6歳(1986-87年)
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「クシロキング」の記事における「5-6歳(1986-87年)」の解説
1月5日、金杯(東)(GIII)では、それまで主戦を務めていた安田がアサカサイレントに騎乗するため、岡部幸雄に乗り替わった。1番人気に支持され、5番手から差し切って勝利。中野は「(前略)いきなり重賞を勝てるとは考えなかった」と振り返り、直線で差し切られた安田は、クシロキングの強さに驚くほどであった。2月16日、目黒記念(GII)では長距離戦となる芝2500メートルに初めて出走したが、レコードで制したビンゴチムールに1馬身4分の1差まで迫った3着となった。 3月9日の中山記念(GII)では、1番人気に支持された。直線で、先に抜け出していたトウショウペガサスを外から追い上げた。結局差し切り、決勝線ではクビ差先着して重賞2勝目となった。続いて中野は、距離適性から長距離の天皇賞(春)(GI)への出走を諦め、京阪杯(GIII)を挟んで宝塚記念(GI)という中距離レースに出走するローテーションを計画。京阪杯に向けて、4月13日に関西へ移動した。 一時、出走を諦めた天皇賞(春)は、前年の二冠馬で有力視されていたミホシンザンが骨折により回避していた。中野は、代わって有力視されたのがスダホークであることからクシロキングに勝機があると判断。加えて、体調、状態ともに良好であり、騎乗する岡部には、距離不安を克服するだけの力量があると考えていたため、クシロキングは一転、天皇賞(春)に出走することが決定した。 4月29日、天皇賞(春)は、雨により重馬場であった。スダホークが1番人気に推されて単枠指定制度の対象となる一方、3番人気で出走した。スタートから最後方に位置し、すぐ外のスダホークと並んで後方待機。2周目の第3コーナーで追い上げ、先頭から3番手まで進出、その外からスダホークも先頭を窺っていた。最終コーナーに差し掛かると、スダホークが失速。クシロキングも前2頭を外から捕らえようとしたが、単独先頭のメジロトーマスがしぶとく、すぐにはかわせなかった。そこで岡部がムチを入れると、クシロキングが再加速。ようやくメジロトーマスを差し切り、4分の3馬身差をつけて先頭で入線した。クシロキングにとって初のGI制覇が天皇賞であり、中野は1978年春をグリーングラスで制して以来の天皇賞制覇となった。上山牧場は、1976年春に生産馬ロングホークがクビ差の2着に敗れて以降、待望の天皇賞制覇であった。中野は岡部の騎乗を「完璧」と評している一方、岡部はこう述懐している。 この馬に合ったレースをしようとそれだけを心掛けていました。前半は力をセーブして、後半1600メートルに賭けました。それが巧くいったが、こうしたレースはいつもできるとは限らない。もう一度乗れと言われても同じ騎乗はできないでしょうね。 — 岡部幸雄 なお、2着のメジロトーマスが11番人気と低評価であったことから、連勝複式は天皇賞史上最高配当となる1万4480円であった。 その後、距離を短縮した宝塚記念では1番人気に推されるも7着敗退。秋古馬三冠競走を完走したものの、敗れた。6歳になっても現役を続行し、GIIでは好走するも勝利には至らず、連覇を狙った天皇賞(春)は5着敗退。宝塚記念8着敗退後、函館競馬場で休養したが右前脚屈腱炎を発症した。温泉による治療で患部が癒えて、年末の有馬記念(GI)で復帰。柴田善臣に乗り替わり、ブービーの15番人気で出走し9着に敗れた。出走後、両前脚の屈腱炎が悪化したため、競走馬引退が決定した。 1988年1月24日、中山競馬場で引退式が行われた。
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5-6歳(1987-1988年)
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「ダイナアクトレス」の記事における「5-6歳(1987-1988年)」の解説
半年の休養を経ての復帰戦・京王杯スプリングカップでは9番人気という評価だったが、ニッポーテイオーの2着と好走する。続くGI安田記念では、苦手の重馬場ながら5着と健闘し、健在を示す。しかし1番人気に推された阪急杯では騎手との折り合いを欠き、14着と大敗した。 秋初戦の京王杯オータムハンデキャップで、騎手が岡部幸雄に乗り代わる。ダイナアクトレスはこのレースで、1分32秒2という芝1600メートルの世界タイレコード(当時)を記録し、約2年振りの勝利を挙げた。続く天皇賞(秋)の前哨戦、毎日王冠でも牡馬の一線級を降して重賞2連勝を飾る。しかし本番の天皇賞では重馬場を苦にして8着と敗れた。 次走はジャパンカップに向かったが、古馬の筆頭格であるニッポーテイオーがマイルチャンピオンシップに向かったほか、メリーナイスやサクラスターオーといった4歳のクラシック優勝馬もこれを回避したため、上位人気を外国馬が独占し、ダイナアクトレスは9番人気という評価になった。しかし後方待機から直線で追い込み、1番人気のトリプティクなどを抑えて日本馬最先着となる3着となった。2番人気に推された有馬記念では7着に敗れるが、牡馬に混じって通年の活躍が評価されて当年の最優秀5歳以上牝馬に選出、母仔二代の年度表彰受賞馬となった。 翌年も現役を続行し、3月のスプリンターズステークス(当時GII)を勝利、続いて前年ニッポーテイオーに敗れた京王杯スプリングカップを、今度は同馬を破って勝利する。しかし安田記念では再びニッポーテイオーの2着に敗れた。秋になって第39回毎日王冠から始動するも、発走直前にシリウスシンボリに蹴飛ばされるというアクシデントもあり、オグリキャップの5着に敗れた。天皇賞はタマモクロスの4着と好走、その後は2年連続のジャパンカップ出走が予定されていたが、脚部の疲労が見られたため、この競走を最後に競走馬引退となった。この年は重賞2勝、GI競走の2着1回という成績で、年明けには2年連続の最優秀5歳以上牝馬に選出された。
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5-6歳(1981-82年)
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「サクラシンゲキ」の記事における「5-6歳(1981-82年)」の解説
1月25日、ダートのオープン競走3着を叩き台として、2月22日のスプリンターズステークスに出走、単枠指定制度の対象となる中、1番人気に推された。逃げに出て、先頭で直線に入ると、再び加速。後方に6馬身差をつけて先頭で入線して勝利した。騎乗した東は「僕はただつかまっていただけです。今のサクラシンゲキならだれが乗っても勝てますね」と振り返っていた。その後、4月26日の京王杯スプリングハンデキャップでは、残り200メートルでシンボリフレンドにかわされて2着敗退。6月7日の安田記念では、トップハンデを担ったが、タケデンとジュウジアローにかわされ3着敗退。どちらも1番人気に推されたが、2連敗となった。 夏休みの後、9月6日の京王杯オータムハンデで復帰。1番人気に推されて変わらず逃げに出て、失速することなく逃げ切りを果たした。外から追い上げたメジロクラウンをアタマ差退けての勝利、2連覇を果たした。10月17日のオープン競走でも逃げ切り勝利を果たすと、第1回ジャパンカップの日本代表に選出された。 ジャパンカップ参戦に当たり、騎乗する小島は「たとえ勝てなくても日本の快速馬の面目をかけてハナを切っていく」と逃げ宣言。カナダ代表でこれまで出走したすべてでハナを切るブライドルパースとの逃げ対決となった。スタートから先手を主張するブライドルパースを抑え、単独で飛ばし前半の1000メートルを57.8秒で通過するなど、超ハイペースを刻んだ。最後の直線に入っても先頭であり続け、直線中間でアメリカ代表のメアジードーツ、カナダ代表のフロストキングなどにかわされたものの9着となった。ホウヨウボーイやモンテプリンスなど日本代表の凡走ぶりに対して、ハイペースで豪快に逃げ外国調教馬相手に食い下がった唯一の日本代表として、サクラシンゲキに称賛が集まり「日の丸特攻隊」と表された。続いて有馬記念に出走し、再び逃げたものの、直線で伸びず9着に敗れた。 スプリンターズステークスを制した成績面に、逃げたジャパンカップという話題性も加えて、年度代表馬選考委員会から優駿賞スプリンター賞が進呈された。 6歳も現役を続行し、連覇を狙ってスプリンターズステークスで始動。単枠指定の1番人気に支持され、逃げに出たが桜花賞優勝馬ブロケードにかわされ2着敗退。マイラーズカップでも単枠指定の1番人気の支持だったが、カズシゲにクビ差かわされ再び2着に敗退。続く宝塚記念でも8着となった。 夏休みの後、調整を続けて秋シーズンを戦うはずだったが、静内町の牧場がサクラシンゲキの種牡馬シンジケートを結成したため、10月初旬に引退を発表。10月31日、天皇賞(秋)当日の東京競馬場、昼休みに引退式が行われた。1980年の京王杯オータムハンデキャップ優勝時のゼッケン「10」を着用し、小島太が騎乗して直線コース600メートルを駆け、中でも最後の200メートルは10.8秒で走った。
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5-6歳(1989-90年)
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「ヤエノムテキ」の記事における「5-6歳(1989-90年)」の解説
古馬となり、2200メートルの日経新春杯(GII)2着と敗れた後、荻野は適性が2000メートルであると突き止め、2000メートルに戻って産経大阪杯(GII)に参戦。3番手から最後の直線に進入し、先行するランドヒリュウやゴールドシチーを差し切り、3馬身半差を離して勝利した。前哨戦を経ずに宝塚記念(GI)に1番人気で出走したが、2番人気のイナリワンが勝利し、その1.6秒遅れた7着に敗れた。秋には調整の失敗もあってぶっつけで天皇賞(秋)(GI)に挑むも4着、有馬記念は6着に終わった。年明けて6歳となっても日経新春杯2着、マイラーズカップ(GII)3着、産経大阪杯3着と勝ちきれない競馬が続いた。安田記念(GI)からはそれまで主戦だった西浦から岡部幸雄に乗り替わって参戦したが2着、宝塚記念は3着とGIでも上位になるも勝利を挙げることができなかった。 前年と同じく、宝塚記念からぶっつけで天皇賞(秋)に参戦。7番枠からスタートすると中団の内側を追走、直線では内を突いて残り400メートルで先頭に立つと、最後はメジロアルダンの急襲をアタマ差抑えて優勝、サクラユタカオーが保持していたコースレコードを上回るタイムで走破し、GI2勝目を飾った。(レースに関する詳細は、第102回天皇賞を参照。)続くジャパンカップ(GI)では6着(レースに関する詳細は、第10回ジャパンカップを参照)、引退レースとなる有馬記念に出走。ヤエノムテキは本馬場入場直後に放馬。馬体に異常無しとしてレースには出走したものの7着に敗れ、現役生活を終えた。
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5-6歳(2002-03年)
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「ダンツフレーム」の記事における「5-6歳(2002-03年)」の解説
古馬となった2002年、春に放牧から帰還。天皇賞(春)ではなく、目標を中距離に定め、安田記念および宝塚記念出走を計画した。5月12日の京王杯スプリングカップ(GII)で始動、池添謙一が騎乗し4着。池添が続投し、安田記念(GI)に出走した。香港のクイーンエリザベス2世カップ優勝から臨むエイシンプレストンが2.9倍の1番人気、ダンツフレームは、それに次いで6.2倍の2番人気に支持された。良いスタートを切ったが、位置を下げて後方に待機、直線では外に持ち出した。先行し、先に抜け出した7番人気のアドマイヤコジーン目がけて追い上げを開始、ゴール直前ではアドマイヤコジーンの外に並びかけた。しかしクビ差及ばず、GI3度目の2着となった。 続いて、6月23日の宝塚記念(GI)に出走、藤田に三度乗り替わった。藤田は、山内に対して自ら騎乗を志願。この時期は通常函館競馬場に滞在していたが、この日のみ阪神競馬場に参戦した。「出走していれば間違いなく1番人気になったであろう」(優駿編集部)であったジャングルポケットが脚部不安、同年の天皇賞(春)を勝利したマンハッタンカフェが凱旋門賞挑戦、産経大阪杯を勝利したサンライズペガサスが体調不良のためにことごとく回避。また参戦したメンバーで、唯一GI優勝経験のある二冠馬・エアシャカールがいたものの、1年以上勝利のない状態にあった。そんな中、ダンツフレームが単勝オッズ2.4倍の1番人気に推された。以下、2.9倍のエアシャカール、8.9倍のローエングリン、9.3倍のツルマルボーイと続いた。 ローエングリンが逃げる中、ダンツフレームはエアシャカールと並んだ3、4番手に位置。そのまま直線に入り、ローエングリンが後方との差を広げ、しばらく先頭を保持。内側を進んだエアシャカールは伸びを欠いた一方、ダンツフレームは外に持ち出し、後方待機から大外を進んだツルマルボーイとともに、並んで追い上げを開始。やがてローエングリンを捉えて、ツルマルボーイとの競り合いとなり、ダンツフレームがクビ差制して、先頭で入線した。GI初勝利、山元ならびに山内は1995年のダンツシアトル以来宝塚記念2勝目となった。それからカタオカステーブルにて夏休みを過ごし、秋は毎日王冠(GII)で始動して5着。以降、天皇賞(秋)(GI)は自身初の二桁着順となる14着、マイルチャンピオンシップ(GI)ではブービー賞17着となり、休養となった。 6歳となった2003年は、マイラーズカップ(GII)および天皇賞(春)に出走し、どちらも入着。続いて「おそらく陣営はここを花道とみなしていたのだろう」(阿部珠樹)と新潟競馬場のハンデキャップ競走である新潟大賞典(GIII)に出走。ハンデ戦で負担重量は59kgに設定されたが、1番人気の支持。2番人気のタフネススターに1馬身半差をつけて、宝塚記念以来の勝利を挙げた。結局その後も現役を続行し、安田記念で5着、連覇がかかる宝塚記念では7着。夏休みを経て秋は、オールカマー(GII)で復帰する予定だったが、右前脚の浅屈腱炎を発症して競走馬を引退が決定、9月24日付でJRAの競走馬登録を抹消した。その後は、北海道静内町のヤマダステーブルで種牡馬となるとされていた。
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5-6歳(2006-07年)
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「スイープトウショウ」の記事における「5-6歳(2006-07年)」の解説
エリザベス女王杯以後は放牧に出され、年をまたいだ。5歳となった2006年は、春に新設された東京マイルの牝馬限定GI級競走・ヴィクトリアマイル(JpnI)を目指した。3月上旬に帰厩して調整が進んでいたが、4月4日の調教中に故障する。全治3か月となる左第2中手骨骨折となり、春は全休となった。その後はトレーニングセンターに厩舎に残ったまま治療が施された。7月初旬から運動を再開する。 10月8日の京都大賞典(GII)で復帰する。ダービー2着の4歳馬インティライミが2.1倍の1番人気、スイープトウショウはそれに次ぐ5.1倍の2番人気だった。正しくスタートして中団に位置する。逃げ馬がおらず、これまで好位差しのローゼンクロイツが逃げることになり、前半の1000メートルを64.1秒で通過するスローペースとなった。馬群の中の7番手で直線に向いたスイープトウショウは、末脚を発揮し、前を行く2頭の間から抜け出した。5番人気トウショウナイト、7番人気ファストタテヤマが追い込んで来たが、それらに4分の3馬身差をつけて先頭で入線する。重賞6勝目、1995年ヒシアマゾン以来となる牝馬の京都大賞典優勝。また、中328日の長期休養明けで重賞勝利は、史上第5位の記録となった。 その後は天皇賞(秋)を3.9倍の1番人気で臨み、中団後方から追い込み5着まで。続くエリザベス女王杯では、3歳牝馬カワカミプリンセスに1番人気を譲る2番人気の支持。後方待機から大外に持ち出して追い上げたが、内を突いたカワカミプリンセス、中団差しのフサイチパンドラを捉えることができず3位で入線。1位入線のカワカミプリンセスがヤマニンシュクルの走行を妨害したため降着処分となり繰り上がり、フサイチパンドラにクビ差の2着となった。その後有馬記念は、後方追走のまま力尽き10着敗退となる。 6歳となった2007年も現役を続行し、マイラーズカップ(GII)で始動し2着。ヴィクトリアマイルは9着。続く宝塚記念は、厩舎で暴れて右後脚を打撲して回避した。夏を越して、秋は京都大賞典で復帰する予定だったが、調教を嫌がって仕上がらず回避。スワンステークス(GII)で復帰しスーパーホーネットに敗れて4着。続くエリザベス女王杯は、3歳牝馬ダイワスカーレットに敗れて3着となる。エリザベス女王杯を最後に引退が決定、11月23日付でJRAの競走馬登録を抹消する。
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5-6歳(1990-91年)
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「オサイチジョージ」の記事における「5-6歳(1990-91年)」の解説
5歳となった1990年は、1月5日の金杯(西)(GIII)で始動。前年のJRA賞最優秀スプリンターであるバンブーメモリーが口角癤のために出走を取り消し、オサイチジョージに人気が集中。2.2倍の1番人気であった。スタートから先行して、好位の5番手を追走。第3コーナーから最終コーナーにかけて位置を上げ、直線に向くと同時に先頭に立った。以降、4番人気のサツキオアシスが迫ったが先頭を守りきり、4分の3馬身差をつけて入線、重賞3勝目となった。その後土門は、京都記念あるいはマイラーズカップを走り、産経大阪杯を目指すというローテーションを組んでいたが、調整過程で熱発したため、1週間休養。そのため、当初の予定に間に合わず、3月18日の中京記念(GIII)から産経大阪杯に進んだ。 中京記念は、トップハンデを背負い、2.4倍の1番人気で出走。スタートから先行して4、5番手の好位に位置。直線では、勝負所で進路を失い、大外に持ち出してから追い込んだ。13番人気タニノスイセイが先に抜け出していたが、それをゴール寸前で差し切り、アタマ差先着。重賞連勝、重賞4勝目となった。それから4月1日の産経大阪杯(GII)は、2番人気で出走、9頭中4番手の中団に位置した。2番手の1番人気スーパークリークに、第3コーナーから並びかけて先頭を狙ったが、かわすことはできず、4分の3馬身差の2着。続く5月13日の安田記念(GI)は、2番人気で出走。中団から追い込んだが、前を行くオグリキャップに届かず、2馬身以上離された3着となった。 6月10日、宝塚記念(GI)に出走。安田記念優勝から臨むオグリキャップと、前年の有馬記念優勝馬で天皇賞(春)2着のイナリワンが単枠指定となり、オグリキャップが1.2倍、イナリワンが4.7倍に支持され、続く3番人気、11.4倍がオサイチジョージであった。出走前、丸山は、安田記念でオグリキャップの後方から追い上げる戦法をとって敵わなかった経験と、今回はオグリキャップが後方待機から追い込むイナリワンの警戒するだろうから、早めに先行馬を捉えようとしないだろうという推測、それに馬場が前日の雨によって湿りがちであることに着目。勝利のために、積極的に先行し、オグリキャップより前に位置取ることを決意した。 発馬直後から先行し、オグリキャップの前方をとり、逃げるシンウインドに次ぐ2番手を確保。オグリキャップは、オサイチジョージの背後である3、4番手、イナリワンは後方に位置した。オサイチジョージは、2番手を保って向こう正面、第3コーナーを通過。最終コーナーで失速するシンウインドに代わって先頭となり、直線では追われる立場となった。しかし、オグリキャップやイナリワンの追い上げは見られず、独走。後方に3馬身半差をつけて入線し、GI初勝利。丸山にとっても、初めてのGI優勝であった。また、大塚牧場は、エイトクラウン、ナオキに続いて3頭目となる、生産馬の宝塚記念優勝であった。 当日は、阪神競馬場の数年にわたる全面改修直前の、最終開催日であり、さらにオグリキャップの関西地区ラストランが明言されていた結果、宝塚記念史上最高の約8万6千人が来場していた。そして迎えた宝塚記念、オグリキャップの敗戦と、オサイチジョージの勝利という結末に、場内は「しばらくの沈黙」(優駿)があったという。 以降、秋は毎日王冠(GII)から始動し、古馬GI3競走に出走するも、最高着順は4着。5歳となった1991年は、4戦走って4連敗。有馬記念で8着に敗れたのがラストランとなった。
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5-6歳(2010-2011年)
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「アドマイヤコマンド」の記事における「5-6歳(2010-2011年)」の解説
長期休養を終えて2010年1月24日のアメリカジョッキークラブカップで復帰。先団でレースを進めたが失速し12着と大敗した。続く2月20日の京都記念では好位追走も伸び切れず9着に終わった。続く3月21日の六甲ステークスも前走同様の競馬で5着に敗れた。続く4月11日の福島民報杯ではブービーの15着と大敗した。続く5月9日の都大路ステークスでは3番手追走から追い上げてくるも軽快に逃げるシルポートを捉えきれず2着に敗れた。長期休養を終えて2011年10月2日のポートアイランドステークスで復帰したが最下位の15着に敗れた。続く11月12日のアンドロメダステークスでは2番手に控えるも直線で一杯になり10着に敗れた。ファイナルステークスでは中位追走から追い上げるも5着に敗れた。
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5-6歳(1982-1983年)
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「メジロティターン」の記事における「5-6歳(1982-1983年)」の解説
軽度の骨折であったため1月には調教を再開、春の天皇賞を目標に据えた。しかし出走態勢が整わず、復帰は4月のアルゼンチン共和国杯まで遅れた。この復帰戦を6着と敗れると、陣営は同月29日の天皇賞を断念。日経賞に向かった。当日は初勝利時以来の1番人気に支持されると、後方から最後の直線だけで2着を10馬身突き離して圧勝した。次走に迎えた春のグランプリ・宝塚記念では、天皇賞を制したモンテプリンスに次ぐ2番人気に支持される。しかし直線で全く伸びず、9着と大敗を喫した。 メジロ牧場で2ヶ月休養の後、函館記念で復帰。ここを6着と敗れると、続くオールカマー、毎日王冠もそれぞれ5着と精彩を欠いた。この頃のティターンの評価は、「負ける時は呆気なく、勝つ時は圧勝する、潜在能力は高いが気まぐれな馬」といったものであった。 10月31日に天皇賞(秋)を迎え、当日は各馬の評価が拮抗する中で4番人気であった。レースはペースの緩急が激しく入れ替わる中、内埒沿いの中団6番手を進む。鞍上の伊藤は周回2周目の第3コーナーで目標としたキョウエイプロミスの脚が鈍っていることを見て取り、この位置からロングスパートを仕掛けた。ティターンは直線入り口で先頭に立つと、そのまま500mの直線を逃げ切り、ヒカリデュールに1馬身半差で八大競走初制覇を果たした。走破タイム3分17秒9は、前年優勝馬ホウヨウボーイの記録を1秒更新する日本レコードであった。 北野にとって自家生産馬による初めての天皇賞制覇であり大いに喜んだ北野は競走後、メジロ牧場の全従業員に高級スーツを仕立てて贈ったという。またティターン、伊藤、盛次のいずれにとってもそれぞれアサマ、正四郎、藤吉に続く父子制覇となった。 年末には有馬記念に出走。2番人気に支持されるも、ヒカリデュールの8着に終わった。当年、年度表彰に父内国産馬を対象とする新部門が創設され、ティターンは初代の最優秀父内国産馬に選出された。 翌1983年も出走を続けたが8戦全敗に終わり、有馬記念の6着を最後に競走生活から引退。翌年1月15日、アンバーシャダイと合同での引退式が行われた後、種牡馬入りのため北海道へ戻った。
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5-6歳(1974-75年)
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「カミノテシオ」の記事における「5-6歳(1974-75年)」の解説
1974年7月14日、新潟競馬場のBSN杯で復帰し、12頭立て10番人気ながら4着。その後、京王杯オータムハンデでは、スガノホマレが日本レコードで制する中3着。毎日王冠でも3着となるなど重賞でも好走するようになった。11月3日の目黒記念(秋)では、初めて2500メートルに出走したが1番人気に推され、1馬身4分の3差で2着となった。11月14日、天皇賞(秋)に5番人気の支持で出走。直線でイチフジイサミとともに内を突いて抜け出し、2頭並んで競り合いとなったが、イチフジイサミに半馬身先着して優勝した。騎乗した加賀は「(前略)折り合いもついたし、直線で内にヨレたが、あれは仕方がない。ダービーのうっぷんを晴らせてホッとしましたよ〔ママ〕」と述懐、タカマガハラ、アサホコ、ベルワイドに続いて天皇賞4勝目を挙げた。 天皇賞以降、6歳でも現役を続行したが、勝利を挙げられなかった。一時休養してまで再起を試みたものの出走することなく、1976年末に競走馬を引退した。
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5-6歳(2013-2014年)
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「ミトラ (競走馬)」の記事における「5-6歳(2013-2014年)」の解説
初戦のニューイヤーステークスは好位から先頭に立ち優勝するが、初重賞参戦となった阪急杯は14着と惨敗してしまう。この後、約1年4ヶ月の休養を挟み、復帰レースの得意とする東京のパラダイスステークスで1着となり、早々にオープン2勝目を挙げる。その後、関屋記念を10着と惨敗するも、京成杯オータムハンデキャップでは3着と初の重賞での複勝圏内入りを果たす。富士ステークス6着を経て、初の2000m戦となった福島記念は短期免許で来日中のミカエル・バルザローナが騎乗。レースでは好位のインを追走し、ロスなく外に持ち出して並びかけ抜け出し、2着に1馬身1/4差をつけて1着、重賞初制覇を果たした。
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5-6歳(1991-92年)
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「メジロライアン」の記事における「5-6歳(1991-92年)」の解説
5歳となった1991年は、3月10日の中山記念(GII)から始動。単勝オッズ1.4倍の1番人気で出走し、スローペースで逃げたユキノサンライズを捉えきれず2着。この間に熱発となったが、4月28日の天皇賞(春)(GI)に出走。メジロライアンに加え、メジロマックイーンとホワイトストーンも単枠指定制度の対象となり、史上2例目の単枠3頭は、前年までイナリワン、オグリキャップ、スーパークリークが形成した平成三強になぞらえて「新三強」とも呼ばれた。人気も3頭に集中し、メジロマックイーン、メジロライアン、ホワイトストーンの順となり、この3頭のみがオッズ一桁台であった。最内枠から発走し後方に位置。メジロパーマーが逃げてスローペースを作り、メジロマックイーンが5、6番手、メジロライアンは後方から数えて3、4番手であった。2周目の第3コーナーからは、メジロマックイーンが好位からスムーズに進路を確保する一方、メジロライアンは馬群から抜け出せずに追い遅れた。直線では既にメジロマックイーンが抜け出していて敵わず、2位争いとなったが、7番人気ミスターアダムスと12番人気オースミシャダイに先着されて4着となった。 続いて6月9日、阪神競馬場が改修工事のため京都競馬場で代替された宝塚記念(GI)に出走。「新三強」が再び揃ったが、メジロマックイーンだけが単枠指定制度の対象となった。人気は、メジロマックイーンが単勝オッズ1倍台。メジロライアンとホワイトストーンはオッズ4倍台であった。スタートから中団で1周目のゴール板を通過。第1コーナーから2コーナーにかけて、他の馬と接触し行きたがる仕草を見せたが、横山はそれを妨げず位置を上げさせ、向こう正面は3番手で追走した。第3コーナー坂の下りで逃げるイイデサターンや、2番手のホワイトストーンに並びかけてかわし、最終コーナーを単独先頭で通過。直線では、馬場の悪い内側を避けて外を回り、後続を突き放しにかかった。大外から追い込むメジロマックイーンに1馬身半差をつけて先頭で入線、GI6度目の出走で初勝利となった。 また、2着はメジロマックイーンとなり、1971年の優勝馬メジロムサシ、2着メジロアサマ以来20年ぶりとなるメジロ系列による1着2着独占となった。横山は、ウイニングランを終えて退場する際に、ヘルメットをとってスタンドに一礼。横山にとっては、父の横山富雄が前出のメジロムサシに騎乗して勝利を挙げており、父子二代宝塚記念優勝を成し遂げている。 その後は、夏休みを函館競馬場で過ごしたが、調教中に軽い脚部不安、右前脚の屈腱炎を発症。暮れのファン投票で4位となる11万4216票を集めて、有馬記念で復帰するも12着、1992年1月のアメリカジョッキークラブカップ(GII)でも6着となり、連敗とした。3月22日の日経賞(GII)は、重馬場で出走。中団から、位置を上げながら追走し、最終コーナーを先頭で通過。直線では進路を、一般に馬場状態が悪いとされる内側に選択し、突き放した。後方に2馬身半差をつけて入線、重賞4勝目、10カ月ぶりの勝利を挙げた。横山は「第9レースに乗った時に馬場状態は内も外も同じくらい悪く、むしろ内の方が馬場が締まっていたから、思い切ってインを走ってやろうと考えていたんです。それに、(メジロ)ライアンは道悪がうまいので、他馬が気にするぶん有利と判断したんですよ。」と回顧している。 その後は屈腱炎が再発し、再び休養。天皇賞(秋)を目指すも復帰することなく、競走馬を引退した。10月25日、東京競馬場で引退式が行われ、宝塚記念優勝時のゼッケン「1」を着用し、スタンド前を走行した。
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5-6歳(1984-1985年)
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「シャダイソフィア」の記事における「5-6歳(1984-1985年)」の解説
5歳以降は短距離からマイル(1600メートル)路線を中心に進んだが、春シーズンは、安田記念と宝塚記念でそれぞれハッピープログレスとカツラギエースの9着と大敗するなど不調であった。夏の休養をはさんでの秋初戦となったスワンステークスで、レコード勝ちしたニホンピロウイナーから7馬身差ながら2着に入るなど復調気配を見せたが、マイルチャンピオンシップはニホンピロウイナーの4着、続くCBC賞は、ハッピープログレスに半馬身及ばず2着と、牡馬の一線級相手には敵わず、この年は7戦未勝利に終わった。 翌1985年、シャダイソフィアは6歳となったが、馬体にそれほど消耗が見られなかったため、現役続行の道が取られた。緒戦の2走は凡走したが、3月にマイルのオープン特別戦・コーラルステークスで約1年4カ月ぶりの勝利を挙げた。この後2戦をはさみ、河内洋を背に阪急杯に出走。負担重量56.5キログラムと牝馬ながらトップハンデだったが、1分21秒9という好タイムでドミナスローズに2馬身半差をつけて勝利した。これを受け、秋の目標は前年4着のマイルチャンピオンシップに据えられた。 夏は例年通り故郷の牧場で休養した後、マイルチャンピオンシップへの前哨戦としてスワンステークス(京都競馬場)に出走した。短距離路線の筆頭格であったニホンピロウイナーが同日に東京競馬場開催の天皇賞(秋)に回っていたこともあり、休み明けながら1番人気に推された。吉田善哉・照哉はこれを観戦するため京都にいたが、このレースの開始前には天皇賞で社台レースホースのギャロップダイナが「皇帝」と呼ばれた圧倒的1番人気のシンボリルドルフを破る金星を挙げていた。 天皇賞の後にスワンステークスが発走すると、シャダイソフィアは好スタートから先行争いに加わった、しかし直後に外からローラーキングに押圧され、内のオサイチボーイと挟まれて逃げ場を失う形となり、オサイチ共々転倒した。 転倒から立ち上がったシャダイソフィアは京都競馬場内の診療所に運ばれたが、第1指関節開放脱臼で予後不良が宣告され、安楽死の措置がとられた。薬殺の現場には吉田善哉も立会い、目頭をおさえながら、シャダイソフィアの顔に白いハンカチを被せたという。 牧場に「シャダイソフィア予後不良」の連絡が届いたのは、「ギャロップダイナ優勝祝賀パーティー」の最中であった。吉田善哉は天皇賞をシンボリルドルフに勝たれるところを見たくなかったために京都に回り、事故に遭遇した。後に作家の吉川良に対して、「ギャロップダイナは勝ったが、わたしが逃げたもんだから、ソフィアがあんなことになっちゃったね。ひとつ勲章をもらったけど、前科ももらっちゃった」と語ったという。吉田は1993年に死去したが、その棺にはシャダイソフィアのたてがみも一緒に納められた。
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5-6歳 (1991年-1992年)
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「レッツゴーターキン」の記事における「5-6歳 (1991年-1992年)」の解説
古馬になると初戦の小倉大賞典で重賞初勝利を挙げ続く中京記念も制し重賞を連勝する。しかしその後は不振に陥り7戦連続惨敗を喫してしまう。 騎手を大崎昭一に変え、心機一転した谷川岳ステークスでは単勝7番人気で制し実に13か月ぶりに勝利する。この後は引退まで大崎が手綱を握ることになる。新潟大賞典では惨敗してしまうもののテレビ愛知賞では2着、1戦はさんだ後の北九州記念、小倉記念と連続で2着し、勝てないものの確実に復活の兆しを見せていた。続く福島民報杯でその年2勝目を挙げると陣営は天皇賞(秋)の参戦を決意する。 迎えた天皇賞(秋)では前走を勝利したとはいえトウカイテイオーやナイスネイチャなどの一線級に比べると明らかに評価が劣っており、単勝11番人気に甘んじていた。が、いざレースがはじまるとダイタクヘリオス、メジロパーマーが作り出すハイペースの中、後方で待機をする。直線に向くとメジロパーマー、ダイタクヘリオスをトウカイテイオーが交わして先頭に立つが、そのトウカイテイオーも中団で脚を溜めていたナイスネイチャに差され、さらにまとめてその外からレッツゴーターキン、ムービースター、ヤマニングローバルが揃って差し込み、最後はムービースターを1馬身半抑えて優勝。この勝利は橋口調教師のG1初勝利であり、大崎にとっては最後のG1勝利であった。単勝11番人気のレッツゴーターキンと単勝5番人気のムービースターという組み合わせで馬連は実に1万7220円の大波乱、東京競馬場は騒然としていた。
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