対局譜
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第3期本因坊戦挑戦手合決戦三番勝負第1局 1946年7月26-8月17日 本因坊昭宇(先番)-岩本薫七段 コミ無し白番の岩本は、手厚くじっくり打ち、中盤から右辺黒に攻撃をかける。黒1(145手目)で大石の生きを計ったところ、白2、4が手筋で隅の黒にコウを残し、黒13と眼形を確かめた時に、さらに白14と複雑なコウに持ち込む。結局コウの続かない黒が13の2路下に眼を持ち、白は左下から中央からの黒を小さく生かして形勢が接近。右上のヨセで黒の失着を咎めて逆転する。305手完、白5目勝。第2局の黒番も勝って本因坊位を獲得した。
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「世界三冠達成」第2回Mlily夢百合杯世界囲碁オープン戦決勝戦第5局 李世乭-柯潔(先番) 2015年百霊杯、三星火災杯の優勝に続いて、Mlily夢百合杯でも決勝戦に進出。李世乭との決勝五番勝負は、第1局李、第2、3局柯、第4局は李が勝って2勝2敗となり、第5局は2016年1月5日に江蘇省如皋市で行われた。序盤はじっくりした布石で、左上でも先番柯潔は黒1(図1、53手目)から二子を捨てて左辺黒の安定を図る。李は右下白10から利かし、白14は黒17まで一子を犠牲にするが、白20、24の切断から30までで16の石と連動して攻勢に立った。 その後は白優勢に進んだが、柯は図2黒1(113手目)から下辺白の分断を狙い、それに対して中央の利かしを狙った白4が黒5と替わって損な手で、白6の時に黒7が妙手で、黒17までつながって白18の連絡を強要して先手を得て、黒19に回って僅かに逆転した。その後黒はヨセで損をするが、最後半コウに勝って281手まで半目勝ち、3勝2敗で優勝を飾った。
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第5期本因坊戦リーグ 1949年12月22-23日 藤沢庫之助-橋本宇太郎(先番) 布石で黒は5の点に飛びたいが、そうすれば白に右辺に開かれる。そこで黒1(19手目)に様子を見たのが橋本らしい才気溢れる手で、さらに黒3まで打って5に打ち、白は6に手を戻さざるを得ず、黒は右辺7のツメに回った。続いて黒は右下17、19と稼ぎ、白が厚くなると左下黒21と守った。しかしこの21は不急の手で、右辺aなどと打っていれば黒が相当であった。白40から激しい戦いになるが、左辺の白のシノギの手順でミスが出て黒が優勢となる。最後は中央の白の大石が死に、209手まで黒中押勝ちして橋本は面目を保った。 七番勝負で貝塚茂樹、高坂正顕は熱心に観戦し、高坂は岩本が苦吟する姿を見て「棋譜になってしまえば対局中の深刻な趣きは殆ど失われる。対局中は一手一手が危機の突破であり創造であり、問題的な未来であるのに、棋譜ではそれが解決された過去になり、確定された境位に変ずるからである。ベルグソンの言う通り時間は生の飛躍であり、過去になった時間はもはや時間ではない。実際の切羽詰った観は棋譜ではうかがい難い。」と観戦記で書いて読者に感銘を与えた。また、毎日新聞囲碁欄の棋譜は、従来盤面の上と横に「いろは」「和数字」が記されていたが、この1950年から洋数字に変わった。
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第2期十段戦挑戦手合七番勝負第4局 橋本宇太郎十段(先番)-半田道玄九段 1963年12月16-17日 第1期十段戦では、1回戦から鯛中新、杉内雅男、木谷實、坂田栄男を破って決勝に進出し、橋本宇太郎との五番勝負では第1局に勝ったものの、その後3連敗で準優勝に終わった。第2期も、1回戦で藤沢秀行に不戦勝、2回戦から岩田達明、高川格、大窪一玄、挑戦者決定戦でまたしても坂田栄男を終盤の逆転で破って、橋本十段へのと挑戦者となった。 第1局は握って半田先番、12目半勝。第2局白番2目半勝。第3局は橋本が白番中押勝で1勝を返した。第4局は、前年の第17期本因坊戦で坂田に挑戦した時の第5局で前実に宿泊した静岡市「喜久屋」で行われた。先番橋本の黒17、19に対して、白は左辺ヒラキ、または15の下にツケる手も考えられた。黒21に対し白aにオサえると黒23に引かれて、cを狙われるため、隅にこだわらずに白22から26と圧迫し、黒もdから出切って隅を取る分かれになったが、手順前後があって白がやや面白い形になった。 (2譜)下辺のコウを打ち抜いて黒1(111手目)の後、白4では2の方面の中央に打つのが妥当だった。黒5以下応じられて左辺を固めたが、そもそも白Aから隅の黒3子を取れるところなので、その手の価値を小さくした。黒13,15の時に、白18とツグ手も有力だったが、白は左辺で稼いだので、中央重視の16と打ち、黒17以下の稼ぎを許した。形勢は細かいながら黒やや有利だったが、黒165手目が疑問で、白が少し良くなり、橋本は247手目から秒読み、265手で終局、白半目勝で半田が十段位を手にした。 第13期王座戦決勝三番勝負第1局 半田道玄九段-大窪一玄八段(先番) 1965年9月15-16日 王座戦では、第5期、第6期で決勝進出するが、いずれも島村利博、藤沢朋斎に0-2で敗れた。第8期に決勝で宮下秀洋を2-0で破って優勝。第13期はタイトル初挑戦となる大窪一玄を2-0で破った。第1局は先番大窪が黒1(51手目)、黒9と右辺白に圧力をかける間に、白8まで中央に勢力をたくわえ、右上白10からのサバキで左上黒との振り替わりとなった。180手完白中押勝。
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「第9期棋聖戦 (囲碁)」の記事における「対局譜」の解説
第9期棋聖戦挑戦手合七番勝負第7局 1984年3月7-8日 趙治勲棋聖-武宮正樹九段(先番) 3勝3敗のタイスコアで迎えた第7局、握り直して先番となった武宮の三連星で始まる。白14のピンツギは、白も辛抱する分、黒にも厚みを作らせない手という。黒19はここの石を上辺の模様に関連付けようという手で、黒21は一時間半の長考。黒23と好形のノビきりを得た。白22では20の上にノビるのも考えられた。白34、黒35に、白が逃げ出すのは黒からの攻めがきついと見て、白36、40と、34の石は見捨てる方針となったが、こうなると34、35の交換は味消しであり、また黒43、45が厚くて気持ちのいい手になった。しかし白46が好点で、これに対する黒47が楽観による緩い手で、中央を守るより右辺打ち込みなどの方が大きかった。この後、黒が46の石を取り込みに行き、その間に白は下辺を地にする展開となり、細かいながら白に残る形勢となった。二日目の19時36分に終局、159手まで白1目半勝となり、通算4勝3敗で趙治勲が規制位を防衛した。 第9期棋聖戦挑戦手合七番勝負第2局 1985年1月30-31日 趙治勲棋聖-武宮正樹九段(先番) この七番勝負で武宮の先番は全て三連星で、大模様と実利の大綱という碁形になっている。第2局も、黒▲に広げて、白△に消しに来た場面で、黒が囲う手を打つなら白も打てると見ている。そこで黒1(35手目)ともたれて打ち、中央白を睨んでいるため、白も強く反発できない。白8では20周辺で左辺黒に圧力をかけながら、中央に連絡を図るのが有力だった。黒11から隅に味付けをして、黒17からを効かす手順が巧妙で、黒29まで抱えることになって優勢となった。白30、32と中央を居直るが、黒35で上辺との連絡を断たれてシノギの有無が勝負になった。黒地を減らしながら大きく生きようとする白48、50に対して、黒51と切って、この黒石は取れず、周辺の黒が厚いために二眼を作れる見込みもなく白は全滅。109手まで黒中押勝となった。 第9期棋聖戦挑戦手合七番勝負第3局 1985年2月6-7日 趙治勲棋聖(先番)-武宮正樹九段 第3局は、序盤右上隅の折衝で黒が主導権を取ったが、黒41手目が白の筋に入った手で、黒は上辺白4子を取り、白は中央を突き抜く分かれとなり、白の大模様のまとまり具合が焦点となった。黒は下辺と右辺で稼いだため、白は左辺△に大きく広げ、図の黒1(79手目)の荒らしに対しては、白12と目を奪って丸ごと取りに行き、盤全体の詰碁となった。黒39で42と打ち。白30の左、白が中央を連絡に行けば、黒は左下の白を切り離して、細かい碁になりそう。黒47で57、白59、黒50でシノグことができた。また黒55で57の右、白56、黒58でもシノギがあった。持ち時間の少ない趙は黒55としたために、白56以下で大石を仕留め、204手まで白中押勝、武宮が2勝1敗と先行することとなった。 第9期棋聖戦挑戦手合七番勝負第5局 1985年2月6-7日 趙治勲棋聖(先番)-武宮正樹九段 第4局を趙が1目半勝ちして、第5局は、白番武宮が左上隅で大ナダレで勢力を取る定石になり、左下でも黒35、57と実利を稼ぐ間に、白60、62、64と中央を厚く構え、左辺黒は低く渡る形となり、白優勢となった。その後黒は下辺白を切り離して圧力をかけて差を詰め、右辺で白130が悪く右辺の地を破られ、黒が逆転して優勢となった。その後中央の黒地を削減に行った時に黒が最強で応じたために手が生じ、再逆転で174手まで白の中押勝となった。この後は武宮得意の大模様の碁ではなかったが、手厚く打ち進める白番の名局と言われた。 第9期棋聖戦全段争覇戦決勝 1984年8月30日 武宮正樹九段-小林覚七段(先番) 全段争覇戦は、七段戦優勝の小林覚と、九段戦5位の武宮正樹の決勝となった。序盤右上で黒が中央を厚く打ち、白がコウで隅を取る間に黒は右下の攻めに回り、その効果で下辺を大きく地にした。その後白が有望な局面だったが、黒が左辺を荒らしに行き、黒▲とサバキを求めた時に、白が左上隅のハネツギ(△)を利かそうとしたが、この隅は白18以下コウになるところなために手を抜かれ、黒1(109手目)の痛撃を受け、左上のコウを争いながら左下隅をいじめられ、黒39、47、49と中央白4子をもぎり取られて、黒優勢となった。195手まで黒中押勝で、小林は全段争覇戦初優勝、最高棋士決定戦に初出場するが、初戦で大竹英雄に敗れた。
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「第10期棋聖戦 (囲碁)」の記事における「対局譜」の解説
第10期棋聖戦挑戦手合七番勝負第6局 1986年3月12-13日 趙治勲棋聖-小林光一名人(先番) 小林が3勝2敗で棋聖位まであと1勝と迫った第6局、左上隅の大ナダレ定石で黒19の堅ツギが小林の趣向で、24にカケ継ぐ定石と違って後手になるが、左辺や中央の利きが少なく、黒の厚さに違いがある。黒31に白32のハサミでは一間に受けても普通だが左辺の黒を狙おうとしている白の注文を外した。黒45、47で上下の白を分断するのが当初からの狙い。白48のカケも従来の趙なら49の両ガカリに打ちそうで、趙の棋風の変化が現れている。 (2譜)黒7(57手目)、9に対して白15と切断するのは単調な戦いになり白に成果が見込めないために、白10と変化を求めたが、白20まではお互いの模様を荒らしていい加減な分かれで、白10の手段は成功している。左辺25から27の打ち込みで白地を荒らした後、白84が問題で、この手では25の左にハネて黒二子を取り切っておくのが大きく、中央を打つのであれば34の一路下の方がよかった。黒49で中央をマグサ場にすることになって好手だった。この後、黒は中央の折衝で損があって微差の形勢となったが、241手までで黒が投了。作れば黒が1目半か2目半の差だった。 第10期棋聖戦挑戦手合七番勝負第3局 1986年2月5-6日 趙治勲棋聖(先番)-小林光一名人 黒5(25手目)に対する白6が、右下隅の黒からの出切りを防ぐための苦心の手。黒7から二子にして捨てて、黒17、19と左辺に厚みを築いたのが好判断で、黒がやや打ちやすい。白30では31に飛んでおくのが手堅いが、黒から30の上にツメられるのがつらい。黒31が急所の攻め。白40が一日目の封じ手で、42までは実戦的な好手。白44から50までは必然の進行で、黒59では61にカケツギでも十分だが、黒59と先行して、白60からお互いに亀の甲を抜き合う進行は、先手で抜いた黒の厚みが大きくわかりやすくなった。その後黒は下辺で損をしたが、左上隅で巧妙な捨て石から上辺を地にして逃げ切り、251手まで1目半勝。趙が2勝1敗と先行した。 第10期棋聖戦挑戦手合七番勝負第5局 1986年2月25-26日 趙治勲棋聖(先番)-小林光一名人 白が左下隅黒への攻めを狙う序盤で、黒は2手で2時間をかける長考で白にポン抜きを許して頭を出す苦心の手順で、左辺白模様への打ち込みから双方の眼のない石が競り合う展開となり、藤沢秀行は「白は碁の形をなしてない。黒よし」、石田芳夫は「しかしそうでもない」と評価の分かれる局面となるが、両者の気合による乱戦「ゴミゴミした碁」は小林のペースとも石田は見ていた。黒1(109手目)では、中央の黒の大石を補強するか、味の悪い右下の黒地を囲うかの選択があったが、白からの利きを無くして中央を間接的に応援する手を打った。しかし結果的にはシノギにはあまり役に立たず、白2、4が好手で、黒は最大の右下黒5と囲ったが、右上隅白12の様子見から白36までのフリカワリで白が優勢となった。中央黒も不安定だが、黒が中央を補強すれば地で勝てないため39と頑張ったが、白40以下この大石もトン死して黒投了となった。黒1では5と打っていれば黒も有望だった。小林はこれで3勝2敗として、棋聖位まであと1勝と迫った。
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「第8期名人戦 (囲碁)」の記事における「対局譜」の解説
必勝の碁を落とす 第8期名人戦挑戦手合七番勝負第4局 1983年10月12-13日 趙治勲名人(先番)-大竹英雄 趙2勝の後の大竹1勝で迎えた第4局は、趙が勝てば防衛に近づき、大竹が勝てば追い上げムードが強まる。先番趙はシリーズはじめて、1手目三々から向かい小目、白は黒のカカりに三間高バサミのゆっくりした布石から中央に力を蓄えた。下辺を消しに来た白を攻めようとする黒1(45手目)に、白8と意表を突き、さらに白18から仕掛けた。黒23では、黒24、白20の上、黒11の下、がよかった。黒27も黒29、白がその右に押さえなら27、白が30なら26の左に切れる。白34の切断に回り、さらに白44と攻めては優勢となった。この黒が脱出を図るが、強引に切断され、白の攻め合い勝ちで必勝の形となるが、失着により無条件勝ちのところがコウになり逆転し、215手まで黒1目半勝ちとなった。 挑戦者1勝 第8期名人戦挑戦手合七番勝負第3局 1983年9月28-29日 趙治勲名人-大竹英雄(先番) 白8の一間ビラキが新手。白12は14の下のスベリが右下済みとの関連で優った。右上で白24から30まで消して右下32に回ったのは大胆な手で、黒は33から右上の白を包囲していくが、黒49が甘く、白50が下辺を広げながら中央の連絡を見る好手となった。黒は中央の攻めを見ながら左辺を分断したが、白は左辺を生きて、中央も巧妙に連絡して優勢。しかし上辺の大ヨセの手(120手目)が敗着となり、黒が右辺を地にする手が大きく、逆転し、177手まで黒中押勝で大竹が1勝を返した。 名人連勝 第8期名人戦挑戦手合七番勝負第2局 1983年9月20-21日 趙治勲名人(先番)-大竹英雄 黒1(19手目)のツケは、白の応手を見て左下のはさまれた石の動き方を決める作戦。白8では23に打って左辺の黒を取り切る手もあった。白22では36にがっちり取りきるほうがよい。黒を攻めたつもりの白24が失着で、黒25で打つ手がなく、黒2子を取ったものの、黒41まで黒が鉄壁の厚みとなり、24の石は無駄手となってしまった。24では右上にカカって右辺を構えて入れば白が有望だった。その後黒は、上辺に入ってきた白を攻めてさらに厚くし、中央が自然と大きな地になって大差の碁、185手まで黒中押勝となった。 新参加残留 第8期名人戦リーグ 1983年2月20-24日 石田章-加藤正夫(先番) 石田章はこれまで1978-79年に新人王戦2連覇などの実績があるが、初のリーグ入り。加藤正夫王座戦では、白10(34手目)以下左辺が黒地になったが、中央が厚壮。上辺で白34と攻めるのに、黒35が勝手読みで、白36が厳しく、白44も先手でさらに厚みを増した。35では43に一間トビが相場のところ。その後白は右上隅を荒らす手に回ることができて細かい形勢となり、白が1目半勝ちとなった。石田はリーグ4勝4敗で残留を果たした。
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「第1期名人戦(旧) (囲碁)」の記事における「対局譜」の解説
「劇的なジゴ」第1期名人戦リーグ最終局 1962年8月5-6日 呉清源-坂田栄男(先番) 序盤は互角の戦いだったが、下辺の戦いからコウとなり、黒は右辺を連打して優勢となる。白は上辺の黒の大石を狙って、左辺△(152手目)で二子を動き出し、以下白18までと打ってから白20で目を取りにいく。黒から22の点が利きでなくなっているため黒23までのコウとなり、白a、黒b、白cのコウ材から、白は上辺、黒は左下隅の白を取る振り替りとなった。この時点でも黒が盤面10目は優勢だったが、坂田はヨセで後退して、盤面5目、白のジゴ勝ちとなり、劇的な藤沢名人の誕生となった。この時はジゴを確認するために、念のために記録係の中山典之が別室で並べ直しを2度行った。
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「第10期名人戦 (囲碁)」の記事における「対局譜」の解説
新名人誕生 第10期名人戦挑戦手合七番勝負第7局 1985年11月20-21日 趙治勲名人-小林光一(先番) 小林の3勝1敗から趙2連勝でタイスコアとなって、第7局が名人位を決める決戦となった。先番小林は右下隅で二間高バサミではハサミ返しされるのを嫌って一間にハサみ、白は黒が下辺に展開するのを避けて下ツケの変化にでたが、この部分の分かれは右辺の黒の幅がよいと見られる。白は下辺、左下で地を持って。黒は中央白への攻め味を見る展開となったが、いったん黒1(61手目)と右上隅を固めて様子を見た。そこで白もすぐに白2、4と荒らしに行ったが、黒5でカラミ攻めを狙う。白は6、8と応じて厚くし、右上の白は捨てる手も見る。白6で10に打てば生きることはできるが、黒6のハネからどんどん押されて上辺が黒地にされてしまう。黒9がすごい手と言われ、これで普通に10に打てば白2子は取れるが、白から右辺のハネツギのヨセが残るため、白も2子を捨てやすくなるのを防いだ。結局白12から2子は捨てたが、この時点では難しい勝負で、上辺をいっぱいに囲おうとした白32が敗着で、黒33以下で楽に荒らされてしまった。この手では28からケイマぐらいに囲えば難しかった。黒37では39の二間でも生きは容易だった。黒46では39の左にカカエるのが最善だが、白46、または49の2路下の二間飛びでも黒勝ち。白50は投げ場を求めた手で、黒51に白が51の右に打てば、黒は39の左にノビて白3子が取られるため、ここで白投了となった。 小林先勝 第10期名人戦挑戦手合七番勝負第1局 1985年9月11-12日 趙治勲名人-小林光一(先番) 双方じっくりした布石で始まった。黒1(31)は衆目の一致する好点だが、白2では1下にグズむ方がこの碁では優った。実戦の進行は黒が地にカラく、黒からの攻めもあまり期待できない。白22は好手。黒23も左辺白への攻めを狙っている。そこで白30で32ハネるのが有力。白30と黒31の交換は黒を固めてしまったため、今度は白32に相手をせず黒33と好点ヒラいて、黒が地合いで優位に立った。白32では、33の右にヒラくか、何も打たずに34の右に打ち込んで荒らす手が考えられた。この後白は右下、右辺で勝負手を繰り出すが、秒読みに追われた白は最善を逃し、黒が逃げ切って先勝した。 大斜作戦で名人完勝 第10期名人戦挑戦手合七番勝負第2局 1985年9月25-26日 趙治勲名人(先番)-小林光一 黒1(7手目)の大斜ガケは、ここの対応によって右下隅の白に対する打ち方を変える意図の好手だった。左下の白が根拠のない形になれば、右下でハサミや肩ツキなどで高圧して戦いの主導権を取ることができる。また白12では白14、黒15、白45に這う定石の方が有力だった。黒23が新手で評価が高く、白32までの分かれは黒がやや打ちやすい。白36に隅を受けずに37とカカったのも柔軟な着想。黒41のツケも好手で、白は48、50と気合いで反発したが、黒47まで隅の白と振り替わって黒が優位に立った。その後黒は下辺も地にして、中央の白地を消しに行った石も巧妙にシノいで、盤面で10目以上の差となった。最後はヨセで白の見損じがあって投了、趙が完勝で1章を返した。 新鋭の奮闘 第10期名人戦リーグ 1985年8月15日 依田紀基-小林光一(先番) 依田の18歳での名人・本因坊戦リーグ入りは当時最年少記録、五段でのリーグ入りは加藤正夫の四段に次ぐ記録で注目を集めたが、リーグ戦7局までで山城に勝ったのみの1勝6敗とリーグ陥落が決まっていた。一方の小林は6勝1敗でこのリーグ最終局に勝てば挑戦が決定、敗れると2敗者同士でプレーオフとなっており、過去の両者の対戦成績は小林の4戦全勝だったが、依田も闘志を燃やして対局に臨んだ。序盤右上隅で白番依田のハザマ飛びから梶原定石となり、白は28手目で1への押しではなく、右下△のケイマガケを選択して広い碁形を目指す。黒1(29手目)には白2と外すのが常形。黒15では黒27、白30、黒32、白43までを利かす手もあったが、打たなかったので白24のノゾキが大きな利かしになり、白26の封鎖に黒は低位で生きることが必要となった。白は先手で厚みを築き、左下白46のカカリに回り、下辺に大きな模様を築いて優勢となった。黒45で31の下にサガって生きると、白から7左の切りが先手になる。その後のヨセで徐々に細かい形勢になり、白180手目が最後の敗着で、216手完で黒の逆転半目勝ち、小林が挑戦者に決定した。
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対局譜
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趙治勲に先勝 第14期天元戦挑戦手合五番勝負第1局 趙治勲天元 - 苑田勇一九段(先番) 1988年11月17日 第14期天元戦で苑田は、1回戦マイケル・レドモンド、2回戦で工藤紀夫に勝ち、準々決勝は対戦相手の依田紀基が病気で不戦勝、準決勝で武宮正樹、決勝で小林覚を破り、3度目の五番勝負出場となった。第1局は黒1(15手目)が苑田独特の広げ方で、白10に手を抜いて黒11〜15と上辺を拡大した。この後白はaから右上に侵入したが、黒は巧打で下辺から上辺につながる大模様を築いて優勢とし、中央から下辺に侵入した白石を捕獲して、半目勝ちで先勝した。 第2局以降も、苑田の大模様に趙が踏み込む展開となり、4局目も苑田の半目勝ちで2-2としたが、第5局は敗れて、天元獲得はならなかった。
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対局譜
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「大見損じで投了」第17期本因坊戦挑戦手合七番勝負第1局 1962年4月18-19日 本因坊栄寿-半田道玄九段(先番) 先番半田の左上での新手の後、下辺、上辺で黒が地で先行し、白の坂田が左上の黒をいじめる展開となってやや優勢。白△(100手目)のノゾキに、黒1、3と変化し、白は得た厚みを背景に右上10以下と稼ぐ。白22が余計な手順で、白30まで後手を引き、黒31に回られてかなり細かい。しかし黒51が見損じで、白52、54と打たれて投了。黒aと切っても以下白b、黒c、白dの両コウになる。51で52にツイでいれば半目勝負だった。 「壮大な捨て石」第17期本因坊戦挑戦手合七番勝負第2局 1962年4月26-27日 本因坊栄寿(先番)-半田道玄九段 坂田が初めて黒番第1着を三々に打った。黒は右下、白は左辺方面を広げようとするが、黒1(31手目)、白2の時に、黒3、5と切って行ったのが、絶妙な捨て石作戦で、囲碁界を驚かせた。3で黒17、白4となるのは平凡策。白22まで黒5子は取られているが、黒21、23と中央を大きく構えて優勢となった。白12黒13を利かしてシメツケを防いだが、左上のダメが詰まったために、白22の備えが必要。白24の消しにも、黒15の石を活用して白の連絡を断ち、この白石にサバキを与えず、下辺の黒地を大きくまとめて大差で優勢とした。219手黒中押勝。 「勝機をとらえる」第17期本因坊戦挑戦手合七番勝負第4局 1962年5月18-19日 本因坊栄寿(先番)-半田道玄九段 白が黒の上辺の大模様を消しに来た機を捉えて、黒は下辺に一手備えるぐらいでも十分な形勢だったが、黒1(75手目)から9と一気に勝負を決めに出た。7の犠打で11のアテを確保し、黒17までで中央の白石を大きく飲み込んでしまった。この後白は下辺の黒を確保したが、黒は手堅く打って大差。
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「妙手TOP5」農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦韓国予選 曺承亞 - 朴鐘勳(先番) 2019年7月10日 曺の白1から3、5が妙手で、地中に手が生じている。この後右下の黒と白の攻め合いはコウとなって、白が右下を取り、黒はコウ材で下辺中央の白を取り切る分かれとなり、白が優勢となった。白中押勝。
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「大逆転」第18期本因坊戦挑戦手合七番勝負第1局 1963年4月22-23日 本因坊栄寿-高川格九段(先番) 先番高川の二連星の布石で始まり、中盤まで黒が打ちやすい形勢だったが、左上隅での戦いで白が優勢となった。107手目が一日目の封じ手となったところで高川が長考し、疲労の激しい坂田が「部屋に引き揚げてもいいですか」とたずね、高川は「どうぞ」と答えてから44分の長考ののちに107手目を盤上に打ち、記録係に「書き入れてください」と言うという、珍しい封じ手となった。二日目になって黒は下辺の黒石を犠牲にして上辺の白の大石を切り離して攻撃をかけ、白がシノぐ展開となったが、黒1(237手目)が妙手で、白の大石の右半分が取られることになり、黒の逆転勝ちとなった。 「坂田のサバキ」第17期本因坊戦挑戦手合七番勝負第2局 1962年4月26-27日 本因坊栄寿(先番)-高川格九段 このシリーズでは坂田は黒番でも白番でも三々の布石を打った。白24の後、黒はaにツケ、白はその左にハネ、黒切りというサバキになったが、黒51が隅の攻め合いの手数を伸ばす意表をついた手で、これへの応手を白が誤り、もともと白のシマリだったところが黒有利な1手ヨセコウとなって、黒が大優勢になった。黒は白に損コウを打たせたことで、コウは白に譲り、右下、左上、中央の大どころを打って、その後も手堅い着手に終始し、差は縮まったが、237手まで黒中押し勝ち。最後まで作れば盤面8目差だった。 「天王山の一局」第18期本因坊戦挑戦手合七番勝負第5局 1963年6月5-6日 本因坊栄寿-高川格九段(先番) 2勝2敗で迎えた第5局となり、高川としてはこの局に勝つとこれまでの勝利パターンになると考えていた。13手目まではリーグ戦での木谷-高川戦と同じ手順。中央の黒模様の消しで白は急所を逃し、黒優勢となった。坂田は形成を楽観していたが、打掛の夜の2時頃に目を覚まして盤面を思い浮かべているうちに白の劣勢に気づいて愕然とし、朝まで一睡もできなかったという。高川も優勢を意識していたが、疲労が激しく、二日目の昼休憩でも食欲が全くなく、部屋で布団を敷いてもらって横になっていた。休憩中に師匠の光原伊太郎と将棋の藤内金吾が訪ねてきたが高川は挨拶をするのも億劫なほどだった。白は下辺の黒にコウを仕掛ける勝負手から寄り付いていき、122手目で△にコウをツギ、黒1(137手目)と打ってシノギはありそうであったが、白4から稼いで形勢はかなり接近した。黒優勢でヨセに入ったところで、黒27、29とアテたのが敗着で、アテに手を抜いて白30と大きな逆ヨセを打たれて逆転し、白半目勝ちとなった。黒27では30にコスむのが大きく、黒30、白a、黒bと打っていればば優勢を維持できていて、黒1目半勝ちであったろうという。高川は「こんな簡単なコスミをなぜ見のがしたのか、自分でもわからない」「くやしさとむなしさで、その夜は一睡もできなかった」と語っている。
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「第2期名人戦(旧) (囲碁)」の記事における「対局譜」の解説
第2期名人戦挑戦手合い七番勝負第7局 1963年9月29-30日 藤沢秀行名人-坂田栄男(先番) 坂田が2連勝3連敗から1勝を返した後の第7局は紀尾井町の福田屋で行われ、握り直して先番の藤沢は、3手目に初めて打ったと言う三々で坂田の得意を逆用する。左辺黒11は一路下のカケツギ、13で一路下にヒラクのが普通と言われたが、好点の白14を誘って、右辺黒15に回る作戦だった。 黒は右辺の白を攻めて、やや厚い形勢と見ていた。中央のマグサ場が焦点となった局面で、白2(120手目)が誰も予想しなかった妙手で、以後中央を白が地模様にして僅かに逆転した。その後藤沢は動揺して悪手を重ね、最後は右下を白に手にされて、178手までで投了。坂田は4勝3敗で第2期名人となった。 第2期名人戦挑戦手合い七番勝負第5局 1963年9月12-13日 藤沢秀行名人-坂田栄男(先番) 黒番坂田は序盤で右上で三々の肩ツキにズラズラ這って地にしたが、やや利かされだったという。その後下辺の白模様を巧妙に荒らして、細かい局面となった。中央の戦いで黒9(129手目)が敗着で、白10となって白優勢となった。212手完白2目勝、藤沢は辛抱を重ねて3連勝した。
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「第1期名人戦 (囲碁)」の記事における「対局譜」の解説
第1期名人戦挑戦手合七番勝負第5局 1976年10月27-28日 大竹英雄名人(先番)-石田芳夫九段 挑戦者の石田が3連敗後1勝の後の第5局は、序盤はゆっくりした碁で、白番の石田のペースかと思えた。右上隅で白46手目に△と全体の黒の薄味をうかがったが、黒1(47手目)から、黒3のコスミツケ一本で隅を間に合わせて黒5と打ったのが絶妙の1手と言われ、黒15までさばき形に進んだ。この後、隅の手順で白が間違えて、黒が勝勢となった。129手まで黒中押勝となり、大竹は名人位を防衛、2連覇となった。白△の手では7の点に飛んでおけば、黒の薄味を守るのが難しかったったろうというのが、解説の林海峰の意見だった。 石田1勝 第4局 1976年10月20-21日 大竹英雄名人-石田芳夫九段(先番) 先番石田の黒1(29手目)の利かそうとする手に大竹は白2と反発した。一日目の封じ手は誰も予想できない右辺黒7のツケで、石田はこの手に1時間20分を使っている。二日目になって黒9と突き出して黒のペースだが、白16が敗着に近い悪手で、黒19が中央を厚くする絶好点となり、さらに右辺黒25まで模様が大きくなって、黒の優勢となった。白16では一路右に打つべきだった。その後黒が右上で失着があり、中央に大きな白地ができたが、黒がリードを守り切って、229手まで黒2目勝。ようやく1勝を挙げた。
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対局譜
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道策とは御城碁初出仕時の対局を含め48局の棋譜を遺しており、道策の対戦相手としてはもっとも多い。当初は1歳年下の道策定先だったが、6番手直り5度の30局で知哲二子となり、二子番26局で知哲1番勝ち越し、最終的には先二の手合となった。寛文10年(1670年)の知哲先番中押勝の碁は、知哲の傑作譜とされる。 他に本因坊道悦、井上道砂因碩、井上道節因碩、星合八碩、本因坊策元、本因坊道知、林玄悦門入との棋譜が遺されている。御城碁では、道策に先で1勝1敗、道的と互戦で2敗など。 漫画「ヒカルの碁」において佐為-菅原顕忠戦の棋譜は、寛文9年10月14日の知哲(先)-道策戦が使われた。 御城碁成績 寛文7年(1667年) 先番5目負 本因坊道策 寛文9年(1669年) 白番4目負 林門入 寛文10年(1670年) 白番2目負 林門入 延宝4年(1676年) 白番2目勝 井上道砂因碩 延宝5年(1677年) 先番5目負 本因坊道策 天和元年(1681年) 先番19目負 本因坊道策 貞享4年(1687年) 白番13目負 本因坊道的 元禄元年(1688年) 白番12目負 本因坊道的 元禄2年(1689年) 先番17目負 本因坊道的 元禄3年(1690年) 白番6目負 井上道節因碩 元禄4年(1691年) 白番中押負 井上道節因碩 元禄5年(1692年) 白番13目負 本因坊策元 元禄6年(1693年) 先番1目勝 井上道節因碩 元禄7年(1694年) 白番5目負 井上道節因碩 元禄8年(1695年) 先番9目勝 井上道砂因碩 元禄9年(1696年) 向三子6目負 林玄悦門入 元禄10年(1697年) 先番中押負 井上道節因碩 元禄11年(1698年) 白番8目負 本因坊策元 元禄12年(1699年) 白番中押負 井上道節因碩
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10年目の恋人 第16期本因坊戦挑戦手合七番勝負第1局 1961年5月3-4日 本因坊秀格-坂田栄男九段(先番) 黒5、7に続いて9にカカって17までとする打ち方は趣向と呼ばれたが、その後は一般化している。黒33に白34と反発して、戦いになったが、白54が高川の見損じで、黒73の時に白77とワタるのが先手になると錯覚していた。これで白の大損となったが、黒75、81も決め手を逃しており、白88と二子取って生きては、形勢は接近した。その後白は上辺黒の切断を睨みながら左辺を荒らしにいく勝負手を放つが、続いて自らのダメを詰める悪手があり、黒の坂田が第1局を制した。 シノギの力 第16期本因坊戦リーグ同率決勝戦 1961年4月21-22日 坂田栄男九段-木谷實九段(先番) 坂田はリーグ戦では木谷に敗れていたが、この局では木谷の逆をとって地に辛い碁を打とうとした。黒25に対する26から34のワタリにそれが現れている。白40も苦心の手で、黒が上ハネや下ハネならさばく手を狙っている。白60から持って行ったのが巧手で、右下の白が直接逃げ出すのでは右上の白ともカラミ攻めになって苦しい。白62から64の大がけが成立して、白は51、57の二子を切り取って生きることに成功した。黒は右上の白に猛攻をかけるが、白はこれをシノいで、左上の黒を攻める態勢となって、優勢を確立し、白番3目半勝となった。この二日目の夜に坂田は老眼鏡を取り出し、これが坂田が眼鏡をかけて対局する最初だった。 坂田は、過去本因坊戦リーグでは毎年挑戦者候補候補の筆頭に挙げられていたなら、2回プレーオフに敗れるなど壁を突破できず、「私の性格は勝負師には向いていない」とこの頃はよくぼやいていたが、この碁ではシノギの力を発揮して激しい読み合いを制した。
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