田栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/06 03:06 UTC 版)
田 栄(でん えい、? - 紀元前205年)は、楚漢戦争時期の斉の国王。子に田広、弟に田横、従兄に田儋。項羽に反し、斉の地を制圧して、斉王を名乗ったが、項羽に攻められ敗北の後、逃亡中に殺された[1][2]。
- ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』秦楚之際月表第四・田儋列伝による。
- ^ 年号は『史記』秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。まだ、秦代では正月を端月とする。
- ^ 『史記』秦楚之際月表では項羽と劉邦を派遣したとする。
- ^ 『史記』項羽本紀では、龍且を派遣したとする。
- ^ 田角は斉の相国、田閒は斉の将軍となっていた。
- ^ a b c d 『史記』項羽本紀
- ^ 後9月は、顓頊暦における閏月。
- ^ 斉の相である田栄はどのような地位となったかは不明。
- ^ 『史記』張耳陳余列伝
- ^ 『史記』高祖本紀では田都は、その後、斉王を名乗った田栄に殺されている。
- ^ 『史記』魏豹彭越列伝
- ^ 『漢書』陳勝項羽伝第一
- ^ 『史記』を注釈する『史記索隠』によると田巿が王に封じられた膠東、田都が王に封じられた斉、田安が王に封じられた済北をあわせて三斉と呼ぶ。
- ^ a b 『漢書』蒯伍江息夫伝
- ^ 『史記』韓信盧綰列伝
- ^ 『史記』ではここだけ梁(彭越?)としている。
- ^ 『漢書』高帝紀第一上
- ^ 『史記』太史公自序
- ^ 歴史群像シリーズ33、『項羽と劉邦 下巻 楚漢激突と“国士”韓信』53頁
[続きの解説]
「田栄」の例文・使い方・用例・文例
- 日本代表の上田栄(えい)治(じ)監督は,「女子サッカーだからといって男子サッカーと違わない。世界のトップチームと戦うには,男子と同じようにプレーしなければならない。」と語った。
- 授賞式で,日本サッカー協会の上田栄(えい)治(じ)女子委員長は「『なでしこジャパン』の愛称は2004年に一般の人から寄せられた案の中から選ばれた。今,私たちは来年のロンドン五輪での『金のなでしこ』をめざしている。」と話した。
- 沙保里選手の父親でレスリング日本女子代表チームのコーチ,吉田栄(えい)勝(かつ)さんは3月11日に脳卒中(くも膜下出血)で亡くなった。
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