辛亥革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 10:30 UTC 版)
辛亥革命 | |
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種類 | 民主主義革命 |
目的 | 清打倒と共和制国家の樹立 |
対象 | 清国 |
結果 | 古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国が樹立された |
発生現場 | 中国 |
指導者 | 孫文、黄興、宋教仁、蔡元培、趙声、章炳麟、陶成章 |
関連団体 | 中国同盟会 |
辛亥革命 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 辛亥革命 |
簡体字: | 辛亥革命 |
拼音: | xīn hài gé mìng |
注音符号: | ㄒㄧㄣ ㄏㄞˋ ㄍㄜˊ ㄇㄧㄥˋ |
日本語読み: | しんがいかくめい |
概説
清が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国が樹立された。勃発日の10月10日に因んで、「双十革命」とも称される。また民国革命のなかで辛亥革命は第一革命とされ、袁世凱に鎮圧された第二革命、さらには護国戦争が第三革命として続く。
辛亥革命のスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権(打倒清朝、回復中華、樹立民国、地権平等)」。
狭義では、1911年10月10日夜に発生した武昌起義から、1912年2月12日の宣統帝(溥儀)の退位までの期間を指す。広義では、清末期からの一連の革命運動から中華民国成立までの、比較的長期間の政治的運動を示す。辛亥革命の理念と成果は、袁世凱を中心とする北洋軍閥により撤回され、地権平等も実現しなかった。この革命はアジアで初の共和制国家を樹立し、古代より続いた君主政の伝統を終わらせ中国の歴史に画期をもたらした。辛亥革命により元号は改められ、民国紀元が採用された。
背景
国情
1840年(道光20年)のアヘン戦争により、清は欧米列強と外交で対峙する必要に迫られた。一部官僚と知識人により1860年代から1890年代にかけて洋務運動が発生、欧米の知識を導入して殖産興業・富国強兵を目指す政治活動が提唱された。しかし、清内部の自発的なこの運動では北宋より続いてきた文官偏重の伝統的な政治体制の改革は限定的なものに留まった。さらに、1894年(光緒20年)の日清戦争で日本に敗れた事で洋務運動の限界が露呈することになった。
これに対し、康有為を中心とする改革派は、日本の明治維新をモデルとして立憲君主制を維持しながら政治・社会制度に大幅な改革を求める内容の上奏を行い、1895年(光緒21年)、光緒帝の支持を獲得、1898年(光緒25年)に戊戌変法が実行に移された。しかし、急進的な改革は保守派の反発を招き、この改革はわずか103日で失敗、改革派は海外亡命を余儀なくされた。
1900年(光緒26年)に義和団の乱が発生、進駐した八カ国連合軍(オーストリア=ハンガリー帝国、フランス、ドイツ国、イタリア王国、大日本帝国、ロシア帝国、イギリスとアメリカ)によって北京が占領されるという事態が発生すると、それまで改革に慎重であった保守派の間にも改革の必要性がようやく認識され、戊戌変法と同様の改革案が提出・実行された。1906年(光緒31年)9月1日には憲政移行の方針を定めた『欽定憲法大綱』を発表し、1910年(宣統2年)には中国初の議会として、中央に資政院が、新疆省を除く各省には諮議局がそれぞれ発足。1911年(宣統3年)5月には内閣が設置されたが、内閣成員の半数が満洲人、内皇族が5名を占める皇族内閣であり、憲政移行を求める知識人の間に失望が広がった。
新軍編成
清末期には、八旗及び漢人緑営を主体とする清中央軍は実質的な戦力を喪失していた。太平天国鎮圧に際しては各地方の兵力に依拠し、日清戦争では旧式軍隊の落伍が顕在化した。清は軍事維持を目的に1901年(光緒27年)に陸軍の全面改革を実施、全国に新式陸軍36鎮を設置し、その内6鎮を朝廷直属とし他は各地方巡撫・総督の管轄とした。新式軍隊の幹部を養成するために各地に軍学堂が設置され、一部地域では留学生を軍官に積極的に採用するようになった。
反清思潮
清を構成する満洲人への反発は存在していたが、清中期には表面化することはほとんどなくなった。しかし、清末の政治的閉塞感から漢人の間に反満意識が形成されるようになった。太平天国では満洲人排除が政治主張に含まれ、1890年代になると明末の著作に刺激を受けて満洲人排除の潮流が発生してきた。清朝打倒を目指す革命運動家は反清復明思想を利用し、鄒容による『革命軍』などの著作が生まれ、知識人の間に広がった。孫文などの革命勢力は、満洲人を満洲に追い出して漢人の明王朝が支配していた黄河・長江流域とその周辺地域に漢人の国家建設を目指そうとした[4]。しかし、辛亥革命後は革命スローガンの「打倒韃虜」に因り警戒を引き起こした満族、モンゴル族、回族、チベット族を取り込むために漢族と合わせた「五族共和」を唱え始めた[4]。
革命組織
辛亥革命は興中会(華南地区)、華興会(湖南地区)、光復会(蘇浙滬地区)及び後に成立した中国同盟会により実行された。この他共進会(長江流域)、文学社、同盟会中の丈夫団なども革命に関与している。中国同盟会は全国革命組織が緩やかに団結した連合体であり、同盟会会員は各地に様々な外郭組織を構築していた。
革命の代表的指導者には孫文、黄興、宋教仁、蔡元培、趙声、章炳麟、陶成章などが挙げられる。
政治主張
革命における主要な政治主張には清打倒と共和制政体の確立がある。1894年11月24日に成立した興中会は「満洲駆逐、中華回復、衆議政治の確立」を活動骨子に定めている。また1904年2月15日に成立した華興会でも「満洲駆逐、中華回復」を政治主張とし、1905年8月20日に成立した中国同盟会でも「満洲駆逐、中華回復、民国建国、地権平等」を綱領に定め、民族主義、民権主義、民生主義が唱えられた。革命団体が一線で活動を行う際には清朝打倒と中華回復を強調し、民衆の中に反満感情を扇動して、清打倒に主眼を置いた。清崩壊後にどのような政治制度が採用され、どのような社会改革が行われるかについては、当時の活動家は清崩壊後に改めて考慮するという立場を採用していた。
革命気運の高揚
1890年代、多くの知識人が武力革命によって清を打倒し、フランスやアメリカのような共和制を確立していこうと唱えた。初期の革命思想の大部分は海外に居住する留学生や華僑青年によるものが多かった。また最初の革命団体もまた海外で組織され、1890年には楊衢雲を中心とする輔仁文社が香港で成立している。孫文もまた1894年11月24日にサンフランシスコで興中会を結成、革命に必要な軍資金の調達を開始した。両者は1895年1月に香港で合併し、興中会の名称で活動を継続、同年10月26日には広州で初めての武装蜂起である広州起義を起こしているが、これは失敗に終わった。この事件により香港への入国が禁止された孫文はロンドンに活動拠点を移した。翌年には清による孫文誘拐事件が発生、国際的に報道されたことにより孫文の名が広く知れ渡ることになった。
1900年の義和団の乱で清の威信は失墜し、翌1901年に締結された北京議定書により列強の中国進出がより顕著となったことから、清国知識人の間に危機感が広がった。日清戦争以降増加していた日本への留学生は1904年には2万人を越えるようになった。当時の留学生の多くが官費留学生であったが、革命思想が留学生間に浸透し、留学生による各種団体が設立され、民主革命の必要性が広く訴えられた。留学していた革命参加者には章炳麟、鄒容、陳天華などがおり、彼らは後に国内革命組織の根幹を構成することとなる。1904年に日露戦争が勃発すると清朝は中立を宣言したが、その主戦場は清国満洲地区であった。外国軍隊が自国領土内で戦闘を行う事態に救国の声が高まり、黄興が指導する華興会、陶成章及び蔡元培が指導する光復会を初め、江蘇の励志学会、強国会、四川の公強会、福建の益聞会、漢族独立会、江西の易知社、安徽の岳王会、広州の群智社等、各種団体が設立された。これらの革命団体は、相互に提携することは少なく地方色の強い個別運動であったが、清打倒と漢族による共和制による政権樹立を共通の目的としていた。当時は漢族による政権樹立が主眼に置かれたため18省での政権樹立を目指し、東三省、内蒙古、モンゴル、青海、西藏、新疆は当初活動範囲から除外されていた。これらの革命活動は反清を掲げる地下組織と提携する例もあり、華興会(湖南地区)は哥老会と、光復会(蘇浙滬地区)は青幇と、興中会(華南地区)は三合会とそれぞれ密接な関係を構築していた。
日露戦争での日本の勝利は、アジアの小国が大国を倒したことで世界中に衝撃をもたらし、清国の孫文やベトナムからも民族独立をめざす革命家が来日した[1]。
1905年夏、孫文は日本で興中会、華興会、光復会等の各団体を団結させることに成功、8月20日に東京にて中国同盟会が組織され[1]、「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」を定めた綱領が『民報』(旧名は華興会機関紙の『二十世紀之支那』、同盟会成立後に改称)上に発表された。同盟会は積極的な宣伝活動を行い、大衆への啓蒙を通じて革命運動を大衆運動へと拡大させていった。『民報』は章炳麟、陶成章らが主筆となり胡漢民、汪兆銘が執筆。康有為や梁啓超が主編した保皇派機関紙であった『新民叢報』と論戦を繰り広げた。
この他の革命団体は下記の通り。
- 共進会
- 1907年7月、同盟会の一部より長江流域での革命発動を行うべきと主張する劉揆一、焦達峰、張伯祥、孫武などが東京にて共進会を組織し、同盟会と共に武昌起義を指導していくこととなった。
- 日知会
- 1906年2月に劉静庵を代表成立、孫武、張難先、何季達、馮牧民など百名以上が参加し、後に同盟会湖北分会期間となった。
- 南社
- 1906年より江南地区では陳去病等により黄社、神交社、匡社等の文学団体が設立され、1909年に南社が誕生、文学作品を通した新思想の啓蒙が行われた。
- 文学社
- 1911年1月30日、振武学社は文学社と改名され、蔣翊武を社長、詹大悲を文書部長、劉復基を評議部長に選出した。文学社は新軍内部の青年軍人組織であり、革命思想の新軍内部への浸透と武器調達を担当し、武昌起義で指導的な役割を果たした。
革命構成員
辛亥革命は帰国した留学生や知識人のみならず、各会派に参加した一般群集、海外華僑、新軍兵士、地方士紳や農民など幅広い出自層による革命であった。
新興知識人
新興知識人は海外で新知識を学んだ留学生と新式学堂で学んだ学生が主体である。科挙制度廃止後、清は西欧式教育を導入すると共に海外留学を奨励した。陶成章の提唱のもと、徐錫麟を初めとする多くの留学生が日本を始めとする海外で最新の軍事教育を受けて帰国している。
1900年代、清国では日本留学熱が高まり、辛亥革命直前には数万人が日本で留学していた。日本で学ぶ留学生の周辺には革命思想が浸透し、1905年の中国同盟会が東京で成立した際には90%以上の会員が日本で学ぶ留学生であった。また日本で軍事教育を受けていた同盟会会員による丈夫団も結成されている。日本留学した学生等は辛亥革命の中で大きな役割を果たし、指導者の孫文を初め、黄興、宋教仁、胡漢民、廖仲愷、朱執信、汪精衛(汪兆銘)等の革命指導者の殆どが日本留学の経験者であった。
結社参加者
清末期、各地で洪門天地会五房の長房青蓮堂、二房洪順堂、三房家后堂、四房参太堂、五房宏化堂または別の四川発祥の哥老会などの秘密結社が結成され、反清活動を展開した。これらの秘密結社に参加したのは地主士紳、農民、手工業工者、商人などであり、士兵を初めとする都市で生活する各階層の民衆や無頼漢によっても構成され、地主士紳階層が中心となり「反清復明」の思想を提唱した。
哥老会は華興会を、青幇は光復会を、三合会は興中会とそれぞれ親密な関係を構築し、孫文もかつては広東省由来の洪門二房洪順堂会派の致公堂の会員であった。1908年以前、革命人士はこれらの結社と緊密な連絡のもと武装蜂起の準備をすすめ、清打倒に重要な役割を果たした。
海外華僑
海外華僑も辛亥革命の中で重要な役割を果たしている。海外華僑はそれぞれの居住地で同盟会に対する資金援助を行うと同時に、帰国後出身地で革命団体を組織、多くの武装蜂起に参加した。1894年11月、孫文がサンフランシスコで興中会を結成した際には20数名の華僑が参加している。また、黄花崗72烈士でも海外華僑が29名を占めるなど、少なからず華僑が参加している。
新軍兵士
1908年以降、革命派の革命運動は群集運動から新軍内の同調者獲得に重点が移り、革命人士は新軍内で秘密裡に革命思想の普及に努めた。科挙制度の廃止により多くの青年知識人が新軍に加盟しており、文学社社長の蔣翊武を初め劉復基、詹大悲、王憲章、張廷輔、蔡大輔、王文錦などが当時の新軍内部のメンバーであった。
士紳及び商紳
1907年9月から10月、清朝は資政院及び諮議局を設置、士紳及び商紳への参政の機会を提供した。1909年、新疆省を除く各省に諮議局が設置され多くの士紳、商紳が選挙により諮議局に選出され、各省の諮議局による間接選挙で資政院の民選議員(98議席)が選出された。地方士紳の政治力は地方政治の中で突出した地位を占めた。
これらの士紳、商紳は本来は立憲派であったが、その後発足した内閣が朝廷主導であったことに失望、武昌起義以降、立憲派も辛亥革命に参加するようになった。
外国人
辛亥革命を支持する外国人も少なからず存在し、特に梅屋庄吉などの日本人による支援が顕著であった。東京で成立した同盟会を初め多くの革命団体が日本で組織・運営され、北一輝を初めとする日本人も同盟会に参加し、武装蜂起に参加した日本人にも多くの死亡者が出ている。
- ^ a b c d e f g 猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、89~93頁。
- ^ “NHK高校講座 | 世界史 | 第36回 中国の現代史”. www.nhk.or.jp. 2021年11月30日閲覧。
- ^ “中国における辛亥革命100周年記念活動: アジア情報室通報 第9巻第3号 | アジア諸国の情報をさがす | 国立国会図書館”. rnavi.ndl.go.jp. 2021年11月30日閲覧。
- ^ a b 酒井信彦 (2011年10月21日). “産経新聞の優れた辛亥革命論”. 日本ナショナリズム研究所 2011年11月28日閲覧。
- ^ 保路運動(コトバンク)
- ^ 1911年10月、宝豊で哥老会の白朗が挙兵していた。
- ^ “童保暄”. 宁波市图书馆. 2019年4月7日閲覧。
- ^ 中国第二历史档案 (2012). 蔣介石年谱:1887~1926. p. 388
- ^ “杭州起义时,蔣介石担任敢死队长,指挥进攻巡抚衙门”. 辛亥革命. 2019年4月7日閲覧。
- ^ 王新龙 (2013). 大清王朝4
- ^ “辛亥风云在新疆”. 人民網. 2019年4月29日閲覧。
- ^ 「臨時大総統,由各省都督代表占拠之;以得満総数三分之二以上者為当選。代表投票權,毎省以一票為限。」
- ^ a b c 江口圭一 「1910-30年代の日本 アジア支配への途」『岩波講座 日本通史 第18巻 近代3』岩波書店、1994年7月28日、ISBN 4-00-010568-X、18~22頁。
- ^ a b c 櫻井良樹, 「近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) ―漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治― 」『経済社会総合研究センター Working Paper』 29巻 p.1-14 2008年, NAID 120005397534, doi:10.18901/00000407, 麗澤大学経済社会総合研究センター
- ^ 太平洋戦争研究会編、森山康平著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年1月25日初版発行、ISBN 978-4-309-72629-8、6頁。
- ^ 中華民国史事日誌。中華民国二年癸丑。第86頁
- ^ 西部はダライラマを首班とするガンデンポタンの直轄領およびガンデンポタンに従属する聖俗の諸侯領、東部は四川省・兵部を介して清朝肯定の羈縻支配を受ける諸侯領が分布。
- ^ 「西蔵」は、1724年〜32年にかけて行われた雍正のチベット分割に置いて、「ダライラマ領」とされた中央チベットに対する中国語名。
- ^ 清朝期の雍正のチベット分割以来、青海と甘粛省の西南部、四川省の西北部などに3分割。
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