機関銃
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歴史
外部動力利用式機関銃の登場
火器の誕生と同時に、その連発化が志向されるようになった[21]。最初期には複数の銃砲身を束ねたり並列に並べたりした火縄銃が試みられた[21]。これを発展させたのがオルガン銃・砲で、1339年には既に文献に登場し、1382年にはヘントの軍隊により実戦投入されたとされている[22]。レオナルド・ダ・ヴィンチもこの種の銃を着想している[23]。しかし当時は前装式の時代であり、銃身全部から上手く発射できたとしても、銃砲身全てに弾丸や発射薬を装填するのに時間がかかるため、あまり実用的ではなかった[22]。
イギリスでは、パルマーが1663年に王立協会に投稿した論文で反動やガスを利用した自動射撃の可能性について述べているが、あくまで理論上の考察であり、試作品の製作には至らなかった[22]。その後、1718年にはロンドンの法律家であるジェームズ・パックルが口径25.4mmのフリントロック式リボルバー(取り外した薬室への銃弾火薬装填、薬室交換、薬室回転、撃鉄起こしは全手作業)であるパックルガンの特許を取得した[22][注 1]。
その後、装填方式が後装式に移行し、また特に薬莢が導入されると、連発銃の発明が相次ぐようになった[21]。初期の発明品は外部動力利用式が主流であり、1834年にはデンマークの発明家N・J・レイプニッツが毎分80発の連射が可能な空気圧機関銃を発明したものの、非常に大掛かりな装置であったため、実用化されることはなかった[22]。また1854年にはイギリスのヘンリー・ベッセマー卿が蒸気機関を利用した自動機構の特許を取得したものの、こちらも製品化には至らなかった[22]。
アメリカ合衆国ではこれらの新しい兵器技術に対して多少進取的であり、南北戦争中の1861年10月には、リンカーン大統領の前でのデモンストレーションの後、ユニオン・リピーティング・ガン10挺の購入契約が締結された[26]。これは機関銃が販売された初めての記録であった[26]。またその翌年の1862年にはガトリング砲が発明され、1866年にはアメリカ軍に採用されたほか、イギリスや日本にも輸出された[26]。既に南北戦争は終結に近づいており、1898年の米西戦争では効果を発揮したものの、軍内部での評価は高いものではなかった[27]。
一方、フランスで開発されたミトラィユーズは、従来の火砲の設計をベースとして、砲身から多数の小銃弾を同時に射撃するものであった[21]。これは1870年の普仏戦争で実戦投入され、一定の効果を挙げた[27]。またオルガン銃の機構を自動化したようなノルデンフェルト式機銃も開発された[21]。
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ダ・ヴィンチによるオルガン銃の図
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パックルガン
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1865年型ガトリング砲
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ミトラィユーズ
自己動力利用式機関銃の登場
上記のように、初期の機関銃は外部動力利用式が主流であったが、当時の「動力」とは機力ではなく、兵士が人力でクランクなどを回すものであったため、外力を必要としない自動機構の開発が求められた[28]。まず実用化されたのが反動利用式で、イギリスのハイラム・マキシムによって1884年に最初の製品(マキシム機関銃)が完成された[29]。一方、1892年にはアメリカ合衆国のジョン・ブローニングがガス利用式の機関銃を試作し、1895年にはコルトM1895重機関銃としてアメリカ軍に採用されたほか、1893年にはオーストリア陸軍のアドルフ・フォン・オドコレック大尉がより先進的なガス利用式の機関銃を発明し、その特許を購入したオチキス社が開発したオチキス機関銃は1895年のフランス陸軍のトライアルに提出された[30]。
これらの機関銃は、ヨーロッパの帝国主義列強によるアフリカ諸地域の植民地化(アフリカ分割)の過程で、少数のヨーロッパ軍部隊で多数のアフリカ人の抵抗を鎮圧するために非常な威力を発揮した[30]。しかし一方で、人種差別による先入観や、新しい兵器技術への忌避感、騎士道を尊ぶ精神性のためもあって[31]、これらの機関銃をヨーロッパ諸国同士で使用するという発想は乏しく、本国の部隊での装備化はなかなか進まなかった[32]。
大日本帝国陸軍も日清戦争のためにマキシム機関銃を約100挺購入しており、台湾征討の際に実戦投入していたが、構造複雑で故障が多く、評価は高くなかった[33]。その後、オチキス機関銃の三十年式実包仕様(保式機関砲)が導入されており、歩兵では防御用として兵站部隊で使用する程度であったが、騎兵では火力の不足を補う火器として活用に熱心であった[33]。1904年開戦の日露戦争においてこれらと対峙したロシア軍もマキシムPM1905重機関銃を使用しており、いずれもその威力を直ちに理解した[27]。
この戦訓を受けて、フランスやドイツは機関銃の装備化を積極的に推進しはじめたものの[27]、結局、1914年に第一次世界大戦が勃発した時点では、機関銃の装備化に消極的だったイギリス軍と比べても、保有率に大きな差が生じるには至らなかった[34]。
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マキシム機関銃
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コルトM1895重機関銃
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オチキス機関銃
第一次大戦での猛威と軽機関銃の登場
第一次世界大戦初期の時点では、歩兵部隊の装備火器は基本的に小銃のみで、中隊横一線の密集隊形で行動して、小銃の弾幕射撃で敵を制圧しながら肉薄し、最終的には密集した歩兵と銃剣による突進力で敵を圧倒することを旨としていた[35]。
戦争が始まった直後に西部戦線において戦線が膠着し、戦いが塹壕と鉄条網に代表される陣地戦に移行すると、このような歩兵の戦い方や編成・装備の問題が露呈されることになった[35]。陣地攻撃に先立つ入念な準備砲撃でも防御側の機関銃を完全に撲滅することは困難であり、そして機関銃に対して従来のように密集隊形で突撃することは自殺行為も同然で、たった1挺の機関銃でも旅団規模の突撃をも食い止めることができた[20]。
しかし各国軍ともに上層部はこのような実態を認識できず、旧態依然とした戦術のままで作戦を続行した結果、甚大な損害を生じた[36]。1917年4月のニヴェル攻勢において、フランス軍は初日だけで4万の死者を出し、更に6週間に渡って無益な突撃が繰り返された結果、ついに部隊で反乱が発生し、全112個師団のうち68個で暴動が発生する事態に至った(フランス軍反乱)[37]。
機関銃の火線のなかでの陣地攻撃において、このような犠牲を避けるためには、部隊を細分化して散開し、地形・地物を利用しながら前進する必要があった[20]。このような疎開隊形では、歩兵の突撃による戦闘力は著しく低下することから、歩兵部隊にも機関銃を配備してこれを補うことが構想されるようになった[20]。これに応じて登場したのが軽機関銃で、従来の機関銃は重機関銃と称されるようになった[20]。またこれとは逆に、装甲戦闘車両や航空機に対抗するため、小銃弾よりも強力な大口径弾を使用する重機関銃も登場した[38]。
このように機関銃の発達・体系化が進んだことで、攻撃時には軽機関銃は火力の中心となり、重機関銃がこれを支援するのに対し、防御時には重機関銃が火力の骨幹となり、軽機関銃がその間隙を埋め、そして攻防ともに小銃がこれら2種類の機関銃を援護するという、現代まで続く歩兵小部隊戦闘の基本が形成されることになった[20]。大戦末期の戦場は、防御側の機関銃が依然として猛威を奮ってはいたものの、戦争前半ほど盤石なものではなく、軽機関銃の援護のもとで散開した歩兵部隊によって、防御側の機関銃はしばしば撲滅された[20]。ただしこのように機関銃対機関銃の構図が生まれたこともあって、ロイド・ジョージによると、最終的に大戦全体の死傷者のほぼ80パーセントが機関銃の犠牲者だったとされる[39]。
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ソンムの戦い中に射撃姿勢を取るヴィッカース重機関銃チーム
汎用機関銃の登場と軽・重機関銃の復権
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第一次大戦中に登場した第一世代の軽機関銃は応急措置としての性格が強く、まもなく各国で本格的に軽機関銃の研究開発が開始されて、1920年代に相次いで装備化された。これらのうち、チェコスロバキアで開発されたブルーノZB26軽機関銃は「無故障機関銃」として定評があり、順次に改良されつつ各国でライセンス生産された[40]。特にイギリス版のブレン軽機関銃は、ルイス軽機関銃のほかにヴィッカース重機関銃の代替も部分的に兼ねており、汎用機関銃のコンセプトの先取りでもあったが、完全な汎用化には至らなかった[41]。
その後、真の汎用機関銃の嚆矢となったのがドイツのMG34機関銃であった[41]。これは、銃の部品の一部や付属品を変更することで、軽・中機関銃、更には対空機関銃や車載機関銃まで使い分けることができるというものであり、ヴェルサイユ条約による重機関銃の保有禁止という制限を回避するとともに、極めて効率的な設計でもあった[20]。第二次世界大戦でのドイツ陸軍は、MG34を軽機関銃のかわりに各歩兵分隊に1挺ずつ配備するとともに、重機関銃のかわりとしても歩兵大隊の重中隊に12挺を配備していた[20]。またその発展型のMG42もMG34とともに広く用いられたが、こちらはプレス加工を多用することで生産コストの低減に成功しており、用兵面だけでなく生産面でも画期的な銃であった[21]。
大戦後の西側諸国もドイツ軍の方針を踏襲して、分隊用の機関銃として汎用機関銃を用いるようになっていき、軽機関銃は廃止される方向にあった[21]。これに対し、東側諸国では汎用機関銃は中隊レベルの装備とされて[16]、これとは別に分隊レベルのための軽機関銃も維持していた[21]。この結果、ベトナム戦争では、東側の武器体系を採用するベトナム人民軍は分隊用の軽機関銃を装備していたのに対し、アメリカ軍は汎用機関銃であるM60機関銃のみを装備した状態で戦争に突入した[16]。しかし特に徒歩行軍の機会が多い熱帯雨林や山岳地域での戦闘において、機関銃本体も弾薬も重く嵩張るM60は輸送のために労力を要し、決定的に不利であった[42]。この経験から、アメリカ軍でも軽機関銃の重要性が再認識されるようになり[16]、1970年代には分隊支援火器(SAW)として正式な計画が発足、1986年にはベルギーで開発されたミニミ軽機関銃がM249軽機関銃として採用された[43]。
一方、航空機の進歩に伴って、対空兵器としては重機関銃でも威力不足となり、第二次世界大戦ではより大口径の機関砲が用いられるようになっていた[38]。特に50口径機銃は歩兵用としては大きく重すぎるとの理由から、一時期、装備数を減らしていた[44]。しかし1982年のフォークランド紛争において、アルゼンチン軍はしばしばブローニングM2重機関銃を陣地の防衛に用いたが、イギリス軍の地上部隊は同クラスの機関銃を配備しておらず、苦戦を強いられたという戦訓もあり[45]、このような火点や軽装甲車両と長距離で交戦する場合の有用性が再認識されるようになった[44]。
注釈
- ^ Ellis 2008, pp. 18–36では「実際に製造されることはなかった」と述べているが、少数が製作されたともいわれ、北京市の故宮博物院やサンクトペテルブルクの砲兵博物館で保管されている[24][25]。
出典
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