日露関係史
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正式な条約を結ぶ前の歴史
ロシアの東方進出
モスクワ・ロシアのイヴァン4世は常備軍ストレリツィを設立すると、1552年のカザン包囲戦でヴォルガ川中流域のカザン・ハン国を併合した。1555年、モスクワ会社が設立されて北極海航路の探検が活発化し、エニセイ川までの航路が開拓された。摂政ボリス・ゴドゥノフは、イェルマークを支援して1598年にシビル・ハン国を滅ぼし、西シベリアの西シベリア平原へ版図を拡げた。
17世紀には東シベリアへの進出を図るロシア・ツァーリ国のコサックによって、レナ川やコリマ川までの航路が開拓された。1632年にはヤクーツクに砦が建設された。1639年にイヴァン・モスクヴィチンがオホーツク海に達し、1643年にセミョーン・シェルコヴニコフ(Семёна Шелковникова、Semyon Shelkovnikov)がオホーツクに町を建設した。1640年代からヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなどの探検隊が、ヤクーツクを拠点として、ゼヤ川やアルグン川から農耕が可能なアムール川流域への南下を開始し、清露国境紛争が起きた。
フリースの金銀島探検隊
1643年にオランダ東インド会社のマルチン・ゲルリッツエン・フリースが択捉島と得撫島に上陸し、領有権を宣言した(オランダ領千島)。
デジニョフ探検隊
1648年、セミョン・デジニョフがチュクチ半島(デジニョフ岬)、ベーリング海峡、アナディリ川を発見していた。1649年、オホーツクに砦が建設された。
1651年、アムール川畔のアルバジンに砦が建設された。1654年と1658年の「清露国境紛争」(中: 雅克薩戦役、朝: 羅禪征伐、露: Русско-цинский пограничный конфликт)で清軍が攻撃してアルバジン砦を破壊。1689年にネルチンスク条約を締結。国境がスタノヴォイ山脈に定められた。
アトラソフ探検隊
1697年頃に日本人漂流民の伝兵衛らとウラジーミル・アトラソフが出会って初めて日本に具体的に関わった。1698年にピョートル1世はサンクトペテルブルクに日本語、中国語、韓國語、露語、南蠻語、拉丁語学習所を設置し、伝兵衛が言語を教えた。1706年、カムチャツカ半島をロシアが占領。カムチャツカ半島を領有したロシア人は、毛皮などを獲る為に色列斯千島でも活動し、日本も在住のアイヌを通じて部分的には交易を行うなど接触はされていたが、東方に土着したロシア人はヨーロッパから遥か離れたこの地で、物資の不足にあえいでおり、食料物資などの補給のために高方の日本との交易を求めていた。
コジレフスキー探検隊
1711年、イワン・コジレフスキーが千島列島(この時、-Курильские острова-と命名した)を探検し、最南部の国後島に上陸した。
ベーリング探検隊
1739年にヴィトゥス・ベーリングが派遣したマルティン・シュパンベルク隊が仙台湾や安房国沖に接近したものの、徳川幕府は沿岸防備を強化した為、接触に失敗した(→元文の黒船)。日本もこの頃までには、北方に「おろしや」という国があることを知るようになった。
1762年にロシアはエカチェリーナ2世の治世となり、1764年に東方のイルクーツクに日本航海学校を、1768年に日本語学校をそれぞれ設置し、日本付近への航海を積極的に行うようになった。こうして18世紀にはロシアと日本も、ほぼ隣国の関係となり、日本近海、とくに蝦夷地周辺に『赤蝦夷』と呼ばれていたロシア勢力が出現するに及んで江戸幕府の北方開拓を刺激することにもなった。
1771年に阿波国にロシア船が漂着する「ベニョフスキー事件」(「はんべんごろう事件」とも)もあった。
アンチーピン外交
1778年にロシアの勅書を携えたイワン・アンチーピンの船が蝦夷地を訪れて直に通商を求めたが、翌1779年に松前藩はそれを拒否した。1781年、仙台藩の藩医工藤平助はロシア研究書である『赤蝦夷風説考』を著述し、北方海防の重要性を世に問うた。当時政治改革を主導していた老中田沼意次も北方に関心を抱き、蝦夷地調査などを開始したが、まもなく田沼は失脚した。
ラクスマン外交
1783年に日本の船頭大黒屋光太夫が伊勢白子浦から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島に漂着し、一行はロシア人によって保護された。
1791年に大黒屋光太夫は女帝エカチェリーナ2世と謁見した。帰国を望んでいた光太夫は、1792年にロシア使節アダム・ラクスマンに伴われて根室に着いた。ロシアは漂着民を届けることを根拠に通商交渉を狙ったが、再度断られ、老中松平定信は周辺を巡視させた。光太夫によって伝えられたロシア事情は桂川甫周の手よって『北槎聞略』にまとめられ、幕府にとっては鎖国時代における貴重なロシア情報となった。また、海外事情に通じた林子平がロシアの日本近海進出について説く啓蒙活動を行い、長崎出島でのオランダ通詞からの情報などでロシアに関する認識が深まっていった。
レザノフ外交・ゴローニン事件
1793年11月、仙台藩の津太夫や善六ら16人乗りの若宮丸が石巻から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島東部のウナラシカ島に漂着した[1]。
1799年に松前藩に代わって幕府が蝦夷地の直轄統治を開始し、最上徳内や近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせた。
同年に露米会社が勅許を受けてロシア領アメリカが成立した。ニコライ・レザノフは、アラスカの維持に必要な食料調達のために、日本やスペイン領アルタ・カリフォルニアに交渉を開始する。1804年9月にレザノフは日本人漂流者の津太夫らを伴い、長崎に来航した。渡された国書にはロシア語による正文と日本語・満洲語による訳文があったが、日本語の訳文は不完全で意味を取ることが難しく、レザノフに同伴してきたドイツ人の博物学教授ラングスドルフがロシア語をオランダ語に翻訳し、それを重訳する形で日本語に直された[2]。同年10月、シトカの戦い。1806年2月、津太夫によって伝えられたロシア事情が『環海異聞』に仙台藩でまとめられた。ロシアの開港要求を幕府が拒絶したため、レザノフは武力による通商開始を上奏していた。
1806年1月26日に江戸幕府は異国船打払令を廃止し薪水給与令(文化の撫恤令)を発布した。しかし、同年9月にレザノフの部下ニコライ・フヴォストフが蝦夷地の日本側拠点である樺太の松前藩の番所を襲撃(フヴォストフ事件)。1807年5月には択捉島駐留の幕府軍を攻撃した(文化露寇)。そのため、江戸幕府は薪水給与令を撤回し、同年12月にはロシア船打払令を発布した。並びに、幕府は幕府軍の増強を謀ったが津軽藩士殉難事件が起こっている。1807年にレザノフが病死し、1808年にロシア軍の暴挙を聞いた皇帝アレクサンドル1世が全軍撤収命令を下し、フヴォストフは処罰された。1808年には松田伝十郎と間宮林蔵がロシア帝国の動向について調査する為に樺太へ渡り、1809年に間宮海峡を沿海州へ渡って黒竜江下流を調査した記録が『東韃地方紀行』にまとめられた。しかし、日露間の緊張関係を背景に、1811年には千島列島を探検中に国後島に上陸したヴァシーリー・ゴロヴニーンが幕吏に捕らえられ、その報復として日本の商人である高田屋嘉兵衛が連れ去られる事件が起こった(ゴローニン事件)。ゴローニン事件解決後の日露関係は落ち着きを取り戻し、1821年蝦夷地は再び松前藩に返還された。
1828年にシーボルトから最上徳内と高橋景保とへ北方の地図や日本の地図と引き換えにクルーゼンシュテルン(レザノフが後援していた)の『世界周航記』が与えられたことが、シーボルトからの手紙を間宮林蔵が上司に提出したことにより発覚し、シーボルト事件が起った。
ロシアにおける日本語教育の衰退及び日本におけるロシア研究の始まり
1805年にロシア唯一の日本語学校がイルクーツクの中学校に合併され、1816年7月26日にはその日本語学校も閉鎖されることとなった[2]。
1814年に日本において、最初の露日辞書の俄羅斯語小成及び露語文法書の魯語文法規範が編纂された[2]。その後、幾らかの訳書も出たが、ロシア研究熱は長くは続かなかった[2]。
注釈
出典
- ^ 大槻 玄沢, 志村 弘強 編 『環海異聞』 雄松堂出版 ISBN 4841900985
- ^ a b c d 維新前後の日本とロシア 平岡雅英 1934年
- ^ 『サハリン島占領日記1853-54』 (ニコライ・ブッセ 、東洋文庫)
- ^ a b c 日本大百科全書(ニッポニカ) 日露通好条約
- ^ コトバンク 樺太千島交換条約
- ^ 朝日新聞 大津事件
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 三国干渉
- ^ 日露年鑑 P.334 日露貿易通信社 1929年
- ^ 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B12082554100、在支帝国専管居留地関係雑件/哈爾賓之部(B-3-12-2-32_14)(外務省外交史料館)」 在支帝国専管居留地関係雑件/哈爾賓之部
- ^ 1916年閑院宮載仁親王のロシア訪問―来露100年を記念してセルゲイ・チェルニャフスキー
- ^ PESTUSHKO Yuri S.「戦争からシベリア出兵まで : 20世紀初頭における日露関係をどう見るか」『日本文化の解釈 : ロシアと日本からの視点』、国際日本文化研究センター、2009年12月、261-273頁、CRID 1390009224771115648、doi:10.15055/00001357。
- ^ a b 6.在日本露西亜国民統一会 大正09年08月26日 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03041012800、在内外協会関係雑件/在内ノ部 第二巻(B-1-3-3-006)(外務省外交史料館)」
- ^ 10.浦汐政府対日宣伝開始記事ノ件 自大正九年九月 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03040651200、新聞雑誌出版物等取締関係雑件 第四巻(B-1-3-1-075)(外務省外交史料館)」
- ^ 創価学会公式サイト「SOKAnet:ソ連初代大統領 ミハイル・ゴルバチョフ氏」
- ^ ロシアNIS貿易会資料より。日本の輸出額は8213億円、ロシアの輸出額は7744億円で、日本の貿易総額に占める比率は日本の輸出・ロシアの輸出(日本の輸入)ともに1.1%。なお、同時期に日本円が対米ドルで6%の円安となっている点に留意する必要がある。
- ^ 外務省: 日露首脳会談(於:サハリン)(概要) 外務省 2009年2月18日付
- ^ “麻生首相 「北方4島の帰属問題が一番肝心だ」 - MSN産経ニュース”. MSN産経ニュース. (2009年2月19日)
- ^ “鳩山元首相が語る、クリミア訪問の真相 西部邁ゼミナール 2015年4月26日放送”. TOKYO MX. 2015年5月6日閲覧。ゲスト:鳩山友紀夫、木村三浩 司会:西部邁 アシスタント:小林麻子
- ^ “ロシア、日本と平和条約交渉中断 ビザなし交流停止”. 産経新聞. (2022年3月22日) 2022年3月22日閲覧。
- ^ “ロシア、北方領土交渉の中断発表 ビザなし交流も停止、制裁に反発”. 共同通信社. (2022年3月22日) 2022年3月22日閲覧。
- ^ “ロシア、日本人63人を入国禁止に 岸田首相ら”. 日本経済新聞. (2022年5月4日). オリジナルの2022年5月8日時点におけるアーカイブ。 2022年5月8日閲覧。
- ^ “ロシア外交官は「ペルソナ・ノン・グラータ」 日本政府が追放決定”. 朝日新聞デジタル. (2022年4月8日). オリジナルの2022年5月6日時点におけるアーカイブ。 2022年5月8日閲覧。
- ^ “日本人外交官8人を国外追放へ ロシア外務省、日本への対抗措置で”. 朝日新聞デジタル. (2022年4月28日). オリジナルの2022年5月6日時点におけるアーカイブ。 2022年5月8日閲覧。
- ^ (ロシア語)『日本の衆議院議員に対する報復措置に関するロシア外務省声明』(プレスリリース)ロシア外務省、2022年7月15日。 オリジナルの2022年7月15日時点におけるアーカイブ 。
- ^ “北海道沖で確認したロシア艦艇、千葉県沖まで南下 計7隻となり動向警戒”. ライブドアニュース. 2022年6月18日閲覧。
- ^ a b 都心に「ソ連領」…ロシア大使館など一等地に - 読売新聞・2014年9月20日
- ^ a b えっ、ロシア大使館はまだ「ソ連領」 - FACTA・2009年1月号
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