日羅関係 6世紀

日羅関係

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6世紀

6世紀になると新羅では智証麻立干法興王らが国制の整備によって国力を高め、6世紀中頃には真興王による急激な領域拡大が可能となった。高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、562年には伽耶(大伽耶)を滅ぼして吸収し、文字通りの三国時代となった。

中国に対しては564年北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、その一方で568年南朝にも朝貢した。このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。

唐の中国統一の後に危機感を募らせた高句麗は淵蓋蘇文が実権を握って緊急軍事態勢を敷き、新羅と激しく対立するようになっていた百済の義慈王と連携(麗済同盟)したため、新羅は国際的に孤立することとなった。

7世紀

新羅の唐への接近

新羅は643年善徳女王が唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた。このことが契機となって、新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の毗曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。乱を治めた金春秋(後の武烈王)と金庾信(『三国史記』金庾信列伝によると、金庾信は中国黄帝の子・少昊の子孫である[38])とは真徳女王を立てて親唐路線を継承していった。金春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。

大化の新羅の賊

兵庫県朝来市赤淵神社[39]に伝承する『神社略記』によると、大化元年(645年)に表米宿禰命(ひょうまいすくね)が丹後・白糸の浜に来襲した新羅の賊を討伐した。沈没しかけた船を、大海龍王が、アワビの大群を用いて救ったと伝わる。赤淵神社は日下部氏が奉祭する。

白村江の戦い

新羅は唐の援軍と共に金庾信に軍を率いさせ、百済に進軍。660年に百済を滅ぼす。

663年(天智2年)8月に唐が白村江にて倭国の水軍を破る(白村江の戦い)。

当時称制を執っていた中大兄皇子(後の天智天皇)は、唐・新羅がさらには博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、万一の場合に備えて翌664年に現在の福岡県大野城市から太宰府市にかけて水城を築かせた。翌665年には北九州から瀬戸内海沿岸にかけて大野城基肄城長門城などの古代山城(朝鮮式山城)を築かせた。築城にあたっては、亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)が建設の指揮を執った。667年には都を内陸部の近江大津宮遷した。翌天智7年(668年)正月、中大兄皇子は天智天皇として即位した。同年、新羅僧沙門道行が草薙剣を盗み新羅に逃げ向く[40]。而して中路にて雨風荒れ、迷いて帰るという草薙剣盗難事件が発生している。

唐の軍事力を背景に新羅はその後668年高句麗を滅亡させた。この間の戦力の成長を支えたのは、伽耶が開発した鉄生産技術の取得が背景にあったものと見られる。

統一新羅

その後、新羅は旧百済領を占領していた唐とその支配権をめぐって対立し、670年から争った(唐・新羅戦争)が、676年に唐軍は半島から撤退し、旧高句麗領の南半分と合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。これ以後を日本では統一新羅時代と呼んでいる。

半島統一後、新羅は引き続き唐との関係は緊張し続け、北境に長城を築くなどして唐に対抗した。

他方、唐の律令制度を取り入れ、位階などの名称も8世紀半ばには唐風に改められている。唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、全て中華風に改められている。

遣新羅使と新羅による日本への朝貢

668年以降、日本は遣新羅使を派遣している。

672年壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇。在位は673年686年)は、親新羅政策をとった。また、次代の持統天皇(在位690年697年)も亡夫の天武天皇の外交方針を後継し、同様に親新羅政策をとったが、新羅に対しては対等の関係を認めず、新羅が日本へ朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件をのんで日本への朝貢関係をとった[41]

天武天皇の即位から780年まで、日羅関係の情勢に応じながらも遣日本使が30回以上送られている。

新羅帰化人の移管

持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国[42]、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国[43]土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。帰化人の総数には日本から新羅に帰化していた倭人も含まれる。また天皇により新羅人の帰国が奨励され、半島に帰還するものに対しては食料が配布された。歴史的に残留した新羅からの帰化人は百数十名と少なく、多くは中国人である。

持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し[44]、翌持統天皇4年(690年)には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や[45]、下毛野国に居住させる[46]霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される[47]天平5年(733年)[48]。しかし何れの集落もその後断絶しており、歴史的資料や他地域への移動も行われていない。

8世紀

新羅と渤海

高句麗の故地が新羅(朝鮮人)と渤海(女真人)に吸収され、さらに渤海の滅亡後にその故地でが建国された。

しかし、696年に唐と渤海との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった。これ以後を韓国や北朝鮮では南北国時代と呼んでいる[49]

732年、渤海に山東の蓬萊港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐の要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻撃の功績が認められ、735年に唐から冊封を受けて鴨緑江以南の地の領有を唐から正式に認められた。

「王城国」改称問題

新羅が国力を高めて、735年天平7年)日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと告知したため、日本の朝廷は無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した[50]

こうして両国関係は、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱いしたことにより悪化した。なお、当時、渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣していることも背景にあるとされる[50]

阿倍継麻呂と疫病

736年(天平8年)には遣新羅大使の阿倍継麻呂が新羅へ渡ったが、外交使節としての礼遇を受けられなかったらしく、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった[50]。なお、阿倍継麻呂は新羅からの帰国途中に病死し、残された遣新羅使の帰国後、平城京では天然痘とみられる疫病が流行った。当時、この疫病が新羅から持ち込まれたと信じられた[51]

だが、随員の雪連宅満は新羅到着前に既に病没していること、『三国史記』では遣新羅使の新羅到着前後から聖徳王を含めた新羅側要人急死の記事が現れていることから、遣新羅使出発段階で既に感染者がおり、その往復によって日羅両国に感染が拡大した可能性も指摘されているが[52]、雪連宅満がこの疫病の症状を発して死んだことは記録されておらず、無関係な病死である可能性が高い。

新羅の社会情勢

745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していた[53]。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった[53]。このときに、日本の九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた[53]。しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇は大宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した[53]。翌年には、帰国を希望しなかった新羅人13人を武蔵国に送還した[53]。また、飢饉や疫病によって、後述する新羅の賊が発生したともされる[53]

金泰廉による日本への朝貢

752年天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した[50]。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を持ち込んだと推定されている[50]。この際は王子による朝貢であり外交的には日本に服属した形となった。

朝貢の形式をとった意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し極度に緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている[50]。金泰廉は実際の王子ではないとする研究[54]が一部で出されているが、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動を意図していた説には確証は無い[55]

長安での席次争い

753年(天平勝宝5年)には長安の大明宮で開催された[56]唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる[50]。この際唐は日本側の新羅が倭の従属国であった事実を受け入れ新羅を下位においた。この年の遣新羅大使は、新羅で景徳王に謁することが出来なかった[50][57]

藤原仲麻呂の新羅征討計画

天平宝字2年(758年)、安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。

天平宝字3年(759年新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる[58][59][60]

朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、人質の献上や朝貢を受けるなどし、従来より新羅を属国と見なして来た日本(『隋書』倭国伝は、新羅が倭国を敬仰して、使いを通じていたと記している)は激しい反感を持ち、その様子は、藤原仲麻呂(恵美押勝)が渤海の要請により新羅討伐計画を立ち上げた際の主張である、「新羅が属国であるにもかかわらず日本に非礼であるためとしている」にうかがえる。

恵恭王の時代

これより以降、恵恭王の時代の新羅では律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立は顕在化し、反乱が多数発生する[61]。768年7月には貴族連合体制復活派とみられる大恭・大廉の兄弟の反乱が発生し、王都を33日間包囲するが、王の軍隊が平定した。770年8月には律令体制推進派と見られる金融の反乱、775年6月に貴族連合体制復活派の金隠居の反乱。775年8月には律令推進派の廉相・正門が反乱を企てたことが発覚して誅滅された。776年正月には新羅政府は教書を出し、律令体制を強固に推進した景徳王が唐風に改名した百官の名称を、旧来のものに戻した。貴族連合体制派への譲歩であったと見られる[62]

恵恭王による日本への御調朝貢

8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、再び日本に慇懃な態度をとるようになり[56]宝亀10年(779年)に新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した[56]。また新羅の混乱により多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生するが、「蛮国」の人民が天皇の徳を慕って帰化を願うことを儒教的な観点から善政の象徴と見て、日本側は帰化を許可した[56]

780年2月、伊飡の金志貞が反乱を起こし宮中を包囲する。同年4月、金良相(後の宣徳王)金敬信(後の元聖王)とともに挙兵し、金志貞を滅ぼす。この戦乱の中で恵恭王は王妃とともに殺害された。この8世紀末の新羅では、780年武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位簒奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。また災害や飢饉、また相次ぐ反乱や内戦、また渤海(698年 - 926年)との対立などもあり、新羅は衰退する。

遣新羅使停止

日本では780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった[63]。しかし民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、唐・日本・新羅商人により、日本の文物を唐・新羅へ、唐・新羅の文物を日本へ、と運んで交易に励んだ[64][65]。そのため、三国の情報は比較的詳細に交換されていた。有名な新羅商人に張宝高がいる。

8世紀末の新羅の外交政策

新羅第37代の王宣徳王は、782年閏正月、に対して朝貢を行った。勢力を強めている渤海に備え、北方面の守備に努め、781年7月には浿江大同江)以南の地に使者を送って安撫し、また782年2月には漢山州京畿道広州市)の住民を浿江鎮(黄海北道平山郡または金川郡)へ移住させている。785年正月になってようやく唐の徳宗から<検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王>に冊封されたが、病に倒れてそのまま正月13日に死去した。

第38代の王元聖王は、度々の天災に際しては租粟を振舞って民の救済を行ったり、政治的混乱の収拾に努めたが788年秋には盗賊が現われ、791年には元の侍中の悌恭が反乱を起こして誅殺されるなど、安定はしなかった。

786年へ朝貢し、徳宗からは新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書をもらっている[66]


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  6. ^ 新撰姓氏録
  7. ^ 関裕二地形で読み解く古代史ベストセラーズ、2016年11月26日、98頁。ISBN 4584137617https://www.google.co.jp/books/edition/地形で読み解く_古代史/LDFNDwAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&pg=PT98&printsec=frontcover 
  8. ^ 関裕二『蘇我氏の正体』新潮社新潮文庫〉、2009年4月25日。ISBN 4101364729 
  9. ^ 関裕二地形で読み解く古代史ベストセラーズ、2016年11月26日、103頁。ISBN 4584137617https://www.google.co.jp/books/edition/地形で読み解く_古代史/LDFNDwAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&pg=PT103&printsec=frontcover 
  10. ^ ほか但馬国肥後国玉名郡周防国佐波郡とも比定される。
  11. ^ 上垣外憲一『倭人と韓人』講談社講談社学術文庫〉、2003年11月11日、73頁。ISBN 978-4061596238 
  12. ^ 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年、訳注
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  16. ^ 景初2年(238年)記事。井上訳注1980、p.61.註9
  17. ^ 秦氏参照。黒板勝美,国史大系編修会編 『国史大系. 第1巻 上』 吉川弘文館、1966年。p276 また、秦の遺民説は、『後漢書』辰韓伝、『三国志魏書』辰韓伝、晋書に記述が存在している。
  18. ^ 一礼部を「一利郡」と解して慶尚北道星州郡星州面に比定する説がある。(→井上訳注1980 p.66)
  19. ^ 伊西古国とも。慶尚北道清道郡とも。
  20. ^ a b 武光誠『日本と朝鮮はなぜ一つの国にならなかったのか』新人物往来社〈新人物文庫〉、2010年、21頁。 
  21. ^ 武光誠『日本と朝鮮はなぜ一つの国にならなかったのか』新人物往来社〈新人物文庫〉、2010年、22頁。 
  22. ^ 趙燦鵬「南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現」『文史』2011年第1輯所収、中華書局、北京。南朝梁元帝《職貢圖》題記佚文的新發現
  23. ^ “'양직공도'서 신라ㆍ고구려 제기 발견돼”. 聯合ニュース. (2011年8月23日). オリジナルの2021年5月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210511192943/https://www.yna.co.kr/view/AKR20110823082800005 
  24. ^ ここでいう楽浪・帯方は後漢西晋の郡ではなく、国名であり、黄海北道鳳山郡文井面と沙里院邑とに比定する説が有力とされる。(→井上訳注1980 p.66)
  25. ^ 新羅本紀・基臨尼師今10年(307年)条に「復国号新羅」とあるが、基臨尼師今までの新羅本紀においては、始祖赫居世居西干即位紀において「徐那伐」と号し(紀元前57年)、第4代脱解尼師今金閼智を得たとき(64年)に「鶏林」と号したことが見える。第17代奈勿尼師今の時代に前秦に朝貢してからは「新羅」が国際的に通用する国号となったと見られているが、第22代智証麻立干の時代にも国号を「新羅」と定めたという記事が見える。
  26. ^ ただし、急利はこの直前の訖解尼師今2年(311年)1月に阿飡の位に上がると同時に政務と軍事の統括を任されている。王の即位後すぐに有力者に政務と軍事とを委任する場合には伊伐飡(1等官)の官位に引き上げられることが多い。→儒礼尼師今2年(285年)2月条、味鄒尼師今2年(263年)正月条など。また、急利は314年1月に伊飡(2等官)に引き上げられている。
  27. ^ 三国史記』新羅本紀 第十六代 訖解尼師今
  28. ^ 大平裕はこの年の侵攻を神功皇后による新羅征討に相当するとした。『日本古代史 正解』講談社,2009年,184頁。
  29. ^ 太平御覧』で引用する『秦書』。同書の記事を参考にしたと見られる『三国史記』新羅本紀では、単独朝貢を奈勿尼師今の26年(381年)のこととしているが、377年の朝貢記事を記していない。
  30. ^ 太平御覧』で引用する『秦書』
  31. ^ a b c d e f g 好太王好太王碑参照
  32. ^ 『三国史記』「百済本紀」
  33. ^ 平林章仁『神々と肉食の古代史』吉川弘文館、2007年、44頁。 
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  35. ^ 上田正昭『大王の世紀』小学館〈日本の歴史〉、278頁。 
  36. ^ 宮崎市定『謎の七支刀-五世紀の東アジアと日本-』中央公論社中公新書703〉、1983年9月、218頁。ISBN 4121007034 
  37. ^ ブリタニカ国際大百科事典倭の五王』 - コトバンク
  38. ^
    金庾信,王京人也。十二世祖首露,不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅,登龜峯,望駕洛九村,遂至其地開國,號曰加耶,後改為金官國。其子孫相承,至九世孫仇充,或云仇次休,於庾信為曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後,故姓金。庾信碑亦云:「軒轅之裔,少昊之胤。」則南加耶始祖首露與新羅,同姓也。 — 三国史記、巻四十一
  39. ^ 朝来市和田山町枚田上山に所在
  40. ^ 日本書紀
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  42. ^ 『日本書紀』持統天皇元年三月丙戌
  43. ^ 『日本書紀』持統天皇元年四月癸卯
  44. ^ 『日本書紀』持統天皇三年四月庚寅
  45. ^ 『日本書紀』持統天皇四年二月壬申
  46. ^ 『日本書紀』持統天皇四年八月乙卯
  47. ^ 『続日本紀』霊亀元年七月丙午
  48. ^ 『続日本紀』天平五年六月丁酉
  49. ^ なお韓国では、高句麗の滅亡後にその遺民が靺鞨族と共同して満州に建国した渤海を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて南北国時代と呼び、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から満洲沿海州を含めた領域としている。しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、高句麗・渤海を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている(→東北工程)。
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  62. ^ 井上秀雄『古代朝鮮』日本放送出版協会NHKブックス172〉、1972年、229-231頁。ISBN 4-14-001172-6 
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  65. ^ 吉田孝『日本の誕生』岩波書店岩波新書〉、1997年。ISBN 4004305101 
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    同八年(817年):「二月乙巳。大宰府言、新羅人金男昌等卌三人帰化。」
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  84. ^ a b 川尻秋生『平安時代 揺れ動く貴族社会』小学館〈日本の歴史〉、2008年、265頁。 
  85. ^ →井上訳注 p.386 注24、p.387 注29
  86. ^ 日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)および6年(894年)の条





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