後藤象二郎 生涯

後藤象二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 04:57 UTC 版)

生涯

生い立ち

後藤象二郎生誕地(高知市

土佐藩士・後藤正晴馬廻格・150)の長男として高知城下片町に生まれる。母は大塚勝従の長女。幼名は保弥太(やすやた)。通称は良輔(りょうすけ)だったが、後に象二郎と改名。正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。

板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。仲の良かった理由の一つには、互いに遠縁の親戚であったことが挙げられる[1]

父の死

嘉永元年(1848年)7月25日、保弥太11歳(満10歳)の時、江戸藩邸で父が病死すると[2]義理叔父吉田東洋が養育を扶助して育つ。のち東洋が開いた少林塾に学ぶ。また柳河藩士の大石種昌大石神影流剣術を学び文武の業を修めた。

幕末

土佐藩士時代の後藤

安政5年(1858年)、東洋の推挙によって幡多郡奉行となる。万延元年(1860年)9月、土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行を仰せ付けられる。文久元年(1861年)に御近習目付となるが、翌2年(1862年)に東洋が暗殺されると任を解かれた。文久3年(1863年)に勉学のため江戸に出て、開成所大鳥圭介英語を学び、会津藩士・高橋金兵衛に航海術を学んだ。元治元年(1864年)に藩政に復帰した。前藩主で事実上藩政を執っていた山内容堂の信頼を得て大監察参政に就き、公武合体派の急先鋒として活躍した。

慶応元年(1865年)閏5月11日、武市瑞山を獄に断じ、次いで慶応2年(1866年)、藩命を奉じて薩摩、長崎に出張、さらに上海を視察して海外貿易を研究した。坂本龍馬と深く交わるようになったのはこの頃である。

慶応3年(1867年)、土佐藩は将軍徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。土佐藩の在京幹部である寺村道成真辺正心福岡孝弟らの賛同を得て、薩摩藩西郷隆盛大久保利通小松帯刀らと会談し薩土盟約を締結した(6月22日(7月23日))。しかし、イカルス号事件の処理で土佐に乗り込んできた英国公使パークスとの交渉を渡辺弥久馬(斎藤利行)と共に行うなど時間を消耗したため、倒幕路線を歩む薩摩との思惑のずれから盟約は解消された。薩摩との提携解消後も大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出。10月14日に慶喜がこれを受けて大政奉還を行った。これらの功により、後藤は中老格700石に加増され、役料800石を合わせて計1,500石に栄進する。

慶応4年(1868年)、天皇謁見に向かうパークス一行の護衛を勤め、パークス暗殺を計画して斬り込んできた浪士と抜刀して斬り合い、そのうち一人の朱雀操を討ち取る。この事件の功により、中井弘と共にイギリスヴィクトリア女王から恩賜のサーベルが進呈された[3]明治維新の功により賞典禄1,000石を賜る。

明治時代

新政府では大阪府知事参与左院議長参議工部大輔などの要職に就くが、明治6年(1873年)の征韓論争に敗れて板垣退助、西郷隆盛らと共に下野する(明治六年政変)。その後、板垣や江藤新平副島種臣らと共に愛国公党を結成し、民撰議院設立建白書署名の1人となる。

明治7年(1874年)、政治資金を調達するため商社蓬萊社」を設立する。約55万で政府から高島炭鉱の払い下げを受けて経営に乗り出すが、ジャーディン・マセソン商会から代金を全額借りたため、利息と手数料で利益は商会にわたるしくみになっていた。福澤諭吉の仲介で三菱岩崎弥太郎に約97万円で売却し、三菱は後藤に毎月1千円を支払う約束をした。

明治14年(1881年)、自由党の結成に際しては、板垣退助に次ぐ副党首格で参加した。結党後、板垣との洋行計画について、馬場辰猪らにその時期の悪さと資金源を疑われ、自由党の内部対立が深刻になる(板垣洋行問題)。結局、馬場ら批判グループを追放し終止符を打つ。また1881年4月25日、岩崎弥太郎が後藤所有の高島炭鉱を譲り受け、その代償として後藤の政府宛未納金25万円を肩代わりした[4]

明治15年11月11日、後藤は板垣とともに横浜から欧州に渡り、仏、独、英を歴訪し、翌年6月22日帰国した。

明治16年(1883年)、朝鮮留学生を支援していた福澤の要請で朝鮮開化派の金玉均を援護するため、板垣とともにフランス公使サンクイッチを訪問し、朝鮮国内の鉱山利権譲渡の見返りに100万円を借りて[5]、自由党壮士を組織し、朝鮮半島に送り込む計画を立てるも頓挫する。福沢と金は後藤を朝鮮政府顧問として招へいする計画だった。

明治20年(1887年)5月、伯爵を授けられる。その頃、大同団結運動が盛り上がり、後藤は指導者として活躍するが、保安条例の施行により有力民権家が多く追放され、運動は転機を迎えた。後藤も福沢諭吉とともに保安条例の対象となっていたが、最終的には二人ともリストから削除された[6]。後藤は入閣を打診され、黒田清隆内閣で逓信大臣に就任する。民権家は批判したが、後藤は大同団結の主義を貫くことを約束した[7]。実際に閣内で大隈の条約改正交渉を批判し、再三閣議の開催を首相に要求し、閣議では内閣として連帯して責任をとって総辞職することを主張した。結局、黒田一人の辞職で終わったが、大臣の単独責任から内閣としての連帯責任への転換、延いては政党内閣の実現を企図した行動であった[8]黒田内閣第1次山県内閣第1次松方内閣逓信大臣第2次伊藤内閣農商務大臣を歴任。政党人脈を生かし、議会での多数派工作に尽力した。しかし、明治27年(1894年)1月22日、商品取引所の開設にまつわる次官の収賄事件の責任をとって大臣職を辞した。福沢は日清戦争時に再び後藤を朝鮮政府顧問として派遣することを企図し、招へいの準備が進められたが、結局、日本政府が多くの顧問を派遣する形になり、実現しなかった[9]

後藤象二郎の墓

明治29年(1896年)夏頃、心臓病を患って箱根で療養につとめたが、翌明治30年(1897年)8月4日薨去。享年60。墓は東京都港区青山霊園にある。墓の形状は板垣退助の墓と全く同型である。


  1. ^ a b 『板垣精神』
  2. ^ 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家
  3. ^ a b 日本放送協会 (2023年5月16日). “英女王が土佐藩士 後藤象二郎に贈呈のサーベル 都内で見つかる | NHK”. NHKニュース. 2023年5月19日閲覧。
  4. ^ 明治前期財政経済史料集成17 工部省沿革報告 大蔵省編
  5. ^ 彭沢周「朝鮮問題をめぐる自由党とフランス」『歴史学研究』265、1962年6月、22頁。
  6. ^ 寺崎修「保安条例と福沢諭吉」『福沢諭吉年鑑』22、1995年11月。
  7. ^ 3月21日付伊藤博文宛渡辺昇書簡、『伊藤博文関係文書』第8巻、1980年、365―366頁。
  8. ^ 明治22年10月28日付三条実美宛渡辺昇書簡同封別紙探聞報告、「三条実美関係文書」344―5(国立国会図書館憲政資料室蔵マイクロフィルム)。
  9. ^ 都倉武之「明治二七年・甲午改革における日本人顧問官派遣問題――後藤象二郎渡韓計画を中心に」『武蔵野学院大学研究紀要』第3輯、2006年。
  10. ^ 『明治大臣の夫人』
  11. ^ “ルイ・ヴィトン、板垣退助もご愛用 曾孫、トランク寄託”. 朝日新聞. (2011年9月17日). オリジナルの2011年9月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110919065808/http://www.asahi.com/national/update/0916/OSK201109160105.html 2011年9月17日閲覧。 
  12. ^ a b NPO法人板垣会 会報第3号
  13. ^ a b c d e 『十人十色名物男』
  14. ^ 『明治功臣録』
  15. ^ 『実録維新十傑 第九巻』
  16. ^ a b c d 『生きている歴史』
  17. ^ 『佐佐木老公昔日談』
  18. ^ 『時事新報 後藤伯』
  19. ^ 『福澤諭吉全集』第16巻、69頁。
  20. ^ 『坂本龍馬関係文書』
  21. ^ 『海舟座談』P161
  22. ^ 『咢堂漫談』
  23. ^ 日本憲政史を語る 上巻
  24. ^ 『愛川遺稿』
  25. ^ 『書斎の屑籠:活殺自在』
  26. ^ 『中江兆民集』
  27. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
  28. ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
  29. ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
  30. ^ 『御侍中先祖書系図牒』による
  31. ^ 『土佐名家系譜』は、後藤家の遠祖は、戦国時代武将後藤基次であるという俗説を載せ、また中途の世代名を欠くなど、藩政史料と照会しておらず極めて粗雑で誤記が多い。一例を挙げれば、後藤家の先祖が召抱えられたのは、1601年、一豊が上洛の途中の大坂においてであるが、『土佐名家系譜』では1600年、一豊が土佐入領の途中の大坂で召抱えられたとする。このように、藩政史料を根底にせず、聞き書きをそのまま記載されている箇所が散見されるため、引用には注意を要する。
  32. ^ 黒岩比佐子『『食道楽』の人 村井弦斎』岩波書店、2004年6月25日、188頁。






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