後藤象二郎 銅像

後藤象二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 04:57 UTC 版)

銅像

後藤象二郎の薨去後、板垣退助が会長、福岡孝弟が副会長となって、浄財を集め東京芝公園に後藤の銅像(本山白雲作)が建立されたが、大東亜戦争の金属供出により応召出征して果てた。

逸話

  • 通称「象二郎」の名乗りは、容堂の「吉田東洋に象(かたど)れ」との言に基づくとされる。
  • 地震がひどく嫌いで、他人が気づかない程度の微震であってもいち早く気づき、屋外に飛び出すので、その点はいつも家人に笑われたという[10]
  • ルイ・ヴィトンの顧客になった日本人としては最初期のひとりである。立憲政治視察のため板垣退助と渡欧した明治15年(1882年)から16年(1883年)の間に、ヴィトン本店でを購入した顧客名簿の中に板垣退助や後藤象二郎の名が記されている。後藤が購入した鞄は存在しないが、板垣の購入したルイ・ヴィトンの鞄は、高知市立自由民権記念館に現存している[11]。なお初めて顧客になったのが後藤であると長らく信じられてきたが、実際には後藤よりも5年前の1878年鮫島尚信(在仏特命全権公使)と中野健明(一等書記官)が購入していたことが当時の顧客名簿から判明している[12]。板垣退助が日本人購入者として3番目、後藤象二郎が4番目である[12]
  • 板垣とは幼馴染であり、互いに「いのす」(猪之助=板垣)「やす」(保弥太=後藤)と呼び合う仲で、幼少期の2人が喧嘩をした際、後藤がを苦手とすることを知っていた板垣は、決まって蛇を持ち出して後藤を退散させていたと伝えられる。
  • 龍馬が提案したと言われている船中八策に基づき、容堂に大政奉還を進言する。この進言後、脱藩罪に問われていた龍馬が特赦されたのは後藤の働きによるとされる。
  • 二条城での大政奉還の日、薩摩・土佐・芸州備前宇和島の五藩の代表が居残って、慶喜と膝詰め談判となった時、緊張のあまり大汗をかいた。そばで見ていた松平定敬は後藤の緊張した様子を「成る程、額・首筋の流汗は甚だしかりき」と述べ、後で同僚たちと「後藤の汗咄し(ばなし)」を噂し合ったという。
  • 明治19年(1886年)に熱海、同23年(1890年)には大磯にそれぞれ別荘を所有している。また、平塚市袖ヶ浜にも別荘(二扇庵)を所有した。
  • 江藤新平が佐賀の乱を起こした際に、大久保利通捜査に江藤の写真を用いる事を考え、後藤が江藤の写真を持っていることがわかり、警視庁から写真の差出しを頼まれたが、「友人を縛する手掛かりに、おれの記念せる写真を差し出せとは真平御免なり。如何なる処分でも仕切るというのなら勝手にするがよい」と一喝して、写真の差出しを拒否した。江藤逮捕の後、 副島種臣・板垣らと共に、自己の功と引き換えに江藤の減刑を政府に訴え出ている。
  • 伯、ある時賃借事件の為に訴えられて、法廷に召喚せられしことあり。その際、伯の履歴調べの事より、『参議を免ぜられしは何年何月なりしか』と尋ねられたるに、伯は簡単に、『記憶せず』と返答す。原告は『かかる一生涯の大事を記憶せざる理由なし』と詰め寄りければ、伯は忽ち威丈高になりて曰く、『象二郎、不肖なりといえども、維新前より土佐藩の家老なり。靴磨きか、草履取りの分際より成り上がりし出来星紳士ならば、参議の任免を大事件として、後生大事に記憶すべきも、象二郎はこの如き人物にはあらざるなり』と。それより雄弁を鼓して、散々に揶揄翻弄せしかば、原告は激怒のあまり、口訥して弁ずる能わざりき[13]
  • ある時、汽車に井上馨と同乗した際、互いの抱負を語り合った。井上が『我は数千萬円の財を造って見たし』と語ると、後藤は『我は数億円の借金がしてみたし』と答えたという[13]
  • 数々の上演、テレビドラマ、映画で人気の高い三島由紀夫の戯曲『鹿鳴館』で、井上馨をモデルとした主人公・影山伯爵と対立する自由主義者・清原永之輔のモデルであることは三島の創作ノート等にも記されている。清原は伯爵でも大臣でもない在野の大物として描かれているが、1886年の設定なので一応現実の後藤の境遇とも一致する。
  • 後藤の旧宅跡は現在テレビ長崎の社屋となっており、脇に後藤象二郎邸跡を示す石碑が建っている。
  • ヴィクトリア女王から進呈されたサーベルは静嘉堂文庫に収蔵されている[3]

評価

  • 吉田東洋 「我甥なれど後藤生は必ず藩のお役に立つべき者と存ず」[14]
  • 坂本龍馬
    • 「後藤は実に同志にて、人のたましいも志も土佐国中で外にあるまいと存候」
    • 「彼は才物である。彼は我と時勢を談ずるに、一言も既往の歴史に渉らず、恩讐共に、忘るる如く、杯酒の席に於ても、談柄を常に己れに属せしむ。真に才物である。我は、彼の才を利用して、吾党の志望を達せん」[15]
  • 中岡慎太郎 「西郷は一日に十五里歩むといえば必ず十五里歩み、後藤は二十里歩むと大法螺を吹いて、実は十六里しか歩けない。しかし、結局において、後藤は西郷よりも一里多く歩む人間だ」[16]
  • 佐々木高行 「佐幕頑固党の小八木などにも大変嫌われる、また平井、小南などの勤王派にも非常に嫌われたる人である。しかしながら此人は皆人知る才子であります。後藤はとかく突飛な事をやる男であるから、御維新でもなければ身の始末が付かなかったことであろう」[17]
  • 福澤諭吉
    • 「政府の現状を変え、諸悪をはらい清める、非常大胆の豪傑、満天下唯一の人物は後藤伯だけである」[18]
    • 「若しも此人をして総理大臣の地位に当らしめ政府の全権を任せたらんには、国家百年の長計は兎も角も、踔励風発、満前の障害物を一掃して一時天下の耳目を一新するの快断、必ず見る可きものありしならん」[19]
  • 後藤雪子
    • 「後藤の平生の嗜好は字を書くことなり。暇さえあれば、習字をして楽しみたり。酒は一滴も口にせざりき」[13]
    • 「後藤の体重は三十五歳の時に、二十二貫六百目ありき。晩年病気の際にも、十九貫ありき。身長は測りたること無し。著丈は四尺なりき」[13]
  • 陸奥宗光 「試に彼と語りて瞑目せんか、彼は明治世界の産物にあらずして、殆ど晋末の六朝か、唐末の五代に成功すべき怪傑が、偶然その形を我国に現出したるに非ざるかを思い至るべし」[20]
  • 勝海舟 「後藤は大名の塩辛にしたようなものだ。少しも尻のつかぬ男だ」[21]
  • 尾崎行雄
    • 「豪放闊達、人をして一見すぐに快感を起さしむる点においては、予が知人中後藤象次郎伯の右に出づるものはなかった。その言論振舞、何となく雄大な所があって、誠に愉快な人であった。伯の最も他人に異なる所は、過去を語らなかった一事だろう。未来に向って多大の望みをもってる人は、概して過去の語り方が少ないが、一概にそうばかりにも行かないものと見え、伊藤公の如きは、未来に向って、多大の望みを持っていたにもかかわらず、なお好んで過去を語った。大隈候と後藤伯とは、ドチラも容易に過去を語らなかった。特に後藤伯に至っては、過去を語ることが嫌いであったようだ。(大政奉還の事を語らせようとしたが)通り一片の答えをしたかと思うと、何時しか話題を他に転じてしまった。別段四角ばって、これを拒絶したわけではないが、何時の間にか、話を他に外らしてしまった。語ってもよさそうなものだが、語らなかった。不思議な人であった」[22]
    • 「ほんとの豪傑とは、こういう人かと思うような人であった。それにあれほどの豪傑であって、妙なことは、字が上手で、懐素流をよほどよく書いた。おそらく維新の豪傑で、あれほどの能書家は他にはあるまい」[23]
  • 六代目竹本土佐太夫
    • 「維新当時の面白い思い出話を聞こうと思ってたびたび水を向けて見ましたが、いつもニコニコ笑って話されませんでした」[16]
    • 「気宇の大きいこと、太っ腹なこともちょっと他人の真似られないところでした。よく『小さな島国の日本で食えなくなれば、日本人として世界のどこへ行っても大将になってやる』といわれていたが、実際、実業家になっておられても素晴らしい人物になられたでしょう。現に商売が好きで『俺は金儲けをするんだ』と、よくいわれていました」[16]
    • 「日常生活においても、実に太っ腹で磊落で、小さなことが嫌いでした。私が太夫になってからお邸へ伺候致しました時『貴様の小屋の木戸銭はいくらとるか』とおたづねになった。私はそのコツを知っていますから『ハイ一圓とります』と申し上げると、『なに、一圓とるか。ウーム、貴様もとうとう日本一の太夫になったなァ・・・』と大変なご機嫌で、お喜びなのです。万事こうしたイキの愉快な人でした」[16]
  • 山田愛川 「その人物を形容するに一望千里天空海闊あたかも此の大磯の絶景にさも似たり。しかして君の過去を尋ね、その事跡を思い出すときは無限の感慨胸中に沸き出でて、思わず新鮮なる智識を得るに至ること、いわゆる故るきを温ねて新らしきを知るの趣きがあるからである」[24]
  • 山本正心 「私はあれほど逢うて心持のよい先輩は、先づ林有造先輩と好一対の英雄式大人物であったと深く深く頭脳へしみ込んでいる」[25]
  • 後藤新平 「およそ人はその功績により、名誉の表彰を受けしものは、皆その記念物を客間に陳列し、以てこれを誇るを常とす。後藤伯に至りては、決してかかる事なし。予かつて、かのパークス危難救助謝礼として、英女王より賜れる宝剣を一見せんと欲し、これを伯に乞いたるに、『何処かへ仕舞置きたり』と答えられたるのみなりき」[13]
  • 中江兆民 「われらその大胆に服するなり。よく是れ勲を負うの人なり、爵を荷うの人なり、千金を擁するの人なり、姫美を抱くの人なり」[26]

  1. ^ a b 『板垣精神』
  2. ^ 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家
  3. ^ a b 日本放送協会 (2023年5月16日). “英女王が土佐藩士 後藤象二郎に贈呈のサーベル 都内で見つかる | NHK”. NHKニュース. 2023年5月19日閲覧。
  4. ^ 明治前期財政経済史料集成17 工部省沿革報告 大蔵省編
  5. ^ 彭沢周「朝鮮問題をめぐる自由党とフランス」『歴史学研究』265、1962年6月、22頁。
  6. ^ 寺崎修「保安条例と福沢諭吉」『福沢諭吉年鑑』22、1995年11月。
  7. ^ 3月21日付伊藤博文宛渡辺昇書簡、『伊藤博文関係文書』第8巻、1980年、365―366頁。
  8. ^ 明治22年10月28日付三条実美宛渡辺昇書簡同封別紙探聞報告、「三条実美関係文書」344―5(国立国会図書館憲政資料室蔵マイクロフィルム)。
  9. ^ 都倉武之「明治二七年・甲午改革における日本人顧問官派遣問題――後藤象二郎渡韓計画を中心に」『武蔵野学院大学研究紀要』第3輯、2006年。
  10. ^ 『明治大臣の夫人』
  11. ^ “ルイ・ヴィトン、板垣退助もご愛用 曾孫、トランク寄託”. 朝日新聞. (2011年9月17日). オリジナルの2011年9月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110919065808/http://www.asahi.com/national/update/0916/OSK201109160105.html 2011年9月17日閲覧。 
  12. ^ a b NPO法人板垣会 会報第3号
  13. ^ a b c d e 『十人十色名物男』
  14. ^ 『明治功臣録』
  15. ^ 『実録維新十傑 第九巻』
  16. ^ a b c d 『生きている歴史』
  17. ^ 『佐佐木老公昔日談』
  18. ^ 『時事新報 後藤伯』
  19. ^ 『福澤諭吉全集』第16巻、69頁。
  20. ^ 『坂本龍馬関係文書』
  21. ^ 『海舟座談』P161
  22. ^ 『咢堂漫談』
  23. ^ 日本憲政史を語る 上巻
  24. ^ 『愛川遺稿』
  25. ^ 『書斎の屑籠:活殺自在』
  26. ^ 『中江兆民集』
  27. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
  28. ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
  29. ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
  30. ^ 『御侍中先祖書系図牒』による
  31. ^ 『土佐名家系譜』は、後藤家の遠祖は、戦国時代武将後藤基次であるという俗説を載せ、また中途の世代名を欠くなど、藩政史料と照会しておらず極めて粗雑で誤記が多い。一例を挙げれば、後藤家の先祖が召抱えられたのは、1601年、一豊が上洛の途中の大坂においてであるが、『土佐名家系譜』では1600年、一豊が土佐入領の途中の大坂で召抱えられたとする。このように、藩政史料を根底にせず、聞き書きをそのまま記載されている箇所が散見されるため、引用には注意を要する。
  32. ^ 黒岩比佐子『『食道楽』の人 村井弦斎』岩波書店、2004年6月25日、188頁。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「後藤象二郎」の関連用語

後藤象二郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



後藤象二郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの後藤象二郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS