アルマトイ 歴史

アルマトイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 21:43 UTC 版)

歴史

20世紀初頭に建立されたロシア正教会に属するゼンコフ教会。木造の建築物として世界で2番目の高さを誇る[12]
ゼンコフ教会

アルマトイ郊外の山コクトベ英語版には、紀元前10世紀から紀元前9世紀のものと思われる青銅器時代の住居跡が存在する[8]。アルマトイから東50kmに位置する[13]イッシクからは、紀元前5世紀から紀元前4世紀ごろと推定されるサカ族の遺跡が発掘され、[8]独自の文字が刻まれた銀製のカップが出土した[13]。イッシクのほか、アルマトイ近郊には発掘調査が行われていないサカの遺跡が多く存在する[14]

中世にはシルクロードの天山北路のオアシスとして、交易が行われていた。アルマトイ近郊の10世紀から13世紀のものと思われる遺跡からは、タンドリ(窯)、焼きレンガ、貨幣が発掘された[8]。出土した貨幣の表面には「アルマトゥ」の名前が刻まれていた。13世紀のモンゴル帝国の中央アジア遠征の後、アルマトイの名前は多くの人から忘れ去られた[9]

1730年1729年)にはアブル=ハイル・ハンが率いるカザフ族の連合軍が、アルマトイ北西のアヌラカイ山で抗争を繰り返していたジュンガルを撃破する[15]

1854年、シベリア・コサック天山山脈のふもとに要塞を建設し、ザイリースキー(ザイリスコエ、Заилийский)と呼んだ。やがて、要塞はヴェールノエの名前で呼ばれるようになった[16]。ヴェールノエはビシュケクタシュケント方面への遠征の拠点とされ[17]、1859年に初めて地図上に名前が記された[8]

1867年に要塞はヴェールヌイ(Верный)市と改められてセミレチエ州の州都に定められる。ステップ上に位置する立地、当時の不安定な中央アジア情勢のため、ロシア帝国の統治下で秩序が保たれていたヴェールヌイには、多くの民族が移住した[18]。ヴェールヌイに移住した人間はボリショイ・アルマトゥ川沿いに、出身地域ごとに集落を形成した[8]。1880年代のアルマトイは、60年代にロシア人移民が居住する要塞周辺の旧地区、70年代以降に建設された新規の移民の居住地である新ヴェールヌイ区、カザフ族などの非ロシア人が居住する郊外の地区の3つに分かれていた[18]1887年1910年1911年)の大地震(1911年ケビン地震英語版)でヴェールヌイは壊滅するが、人々は町を再建した[19]。2度の大地震の後に、碁盤目状の市街地が整備され始める。

ソビエト連邦の時期

1918年3月にヴェールヌイにソビエト政権が樹立される[20]

1921年2月5日、ヴェールヌイは地方政府の代表者、専門職の業界団体、地元の信仰に基づく団体の共同協議によって、街の古称のひとつで特産品のリンゴにちなんだ名前のアルマ・アタ(リンゴの父)に改称される[10][21]。1926年、労働・国防評議会は、カザフスタンの将来の成長、特に東部と南東部における重要な要素であったトルキスタン-シベリア鉄道の建設を承認した。この鉄道の建設はまた、カザフスタンの首都としてのアルマ・アタの運命に強く影響する決定的な経済的影響を与えた。

1927年4月29日、政府はカザフ自治ソビエト社会主義共和国の首都をクズロルダからアルマ・アタに移すことを決定し[22]、1929年に首都がクズロルダからこの地に移される。

1928年、政争に敗れたレフ・トロツキーが追放され、妻のナタリア・セドヴァと息子のレフ・セドフを伴って滞在した。トロツキーは1929年2月にアルマ・アタからトルコに追放され、メキシコ・シティに亡命した。

1930年、トルキスタン・シベリア鉄道とトルキスタン・シベリア道路、さらにアルマ・アタ空港(現在のアルマトイ国際空港)が完成し[23]、アルマ・アタからソビエト連邦の中心地であるモスクワへの直行便が開通した。アルマ・アタはカザフスタンへの主要な空路の玄関口となり、その地位は今日も維持され、カザフスタンの中心地に発展していく[23]。この小さな町がカザフスタンの首都へと変貌を遂げたのは、新しい行政・政府施設や住宅の大規模な建設によって加速された。木造の平屋が多く建っていた町に、鉄筋コンクリートの建物が現れ始める[5]。ソビエト政権時代、町の通りにはレーニンなどの社会主義を象徴する名前やジャンブル、アバイなどのカザフ族の偉人の名前が付けられた[8]。都市の中心部には政府関係の建物だけでなく、オペラ劇場やコンサートホールなどの文化施設が建設された。

1936年、建築・計画局は、カザフスタンの新しい文化首都としてアルマ・アタを強化する計画を策定した。この計画は、既存の碁盤の目形の地区システムに基づいていた。地区は強化され、再建された。

第二次世界大戦の時期

第二次世界大戦中、アルマ・アタには戦火を逃れるために工場や病院、大学、映画撮影所などがヨーロッパ・ロシアから続々と疎開してきたことがアルマ・アタの人口と構造に劇的な影響を与えた。

ソビエト連邦政府はヨーロッパ戦域から2万6,000人の人口と多数の産業を疎開させた[24]。アルマアタは、ソビエト連邦のヨーロッパ地域から撤去された30以上の産業施設、8つの疎開病院、15の研究所、大学、技術学校、約20の文化施設を受け入れ、1941年から1945年にかけて、この都市の産業ポテンシャルは著しく向上した。

また、レニングラード、キエフ、モスクワにあった映画製作会社のモスフィルムレンフィルムもこの時期にアルマアタに移され[25]、アルマ・アタに中央合同劇映画製作所が発足。当時のソビエト連邦製映画の約8割がアルマ・アタで制作された[26]。アルマ・アタで映画技法を学んだ人物の中から、中央アジアの映画界で活躍する人材が多く現れた[26]

このため、非常に多くのロシア民族が流入し、カザフ人はこの地域で少数派となった。

戦後には第40収容地区(ラーゲリ)が設置され、シベリア抑留を受けた日本兵捕虜が収容された[27]。アルマトイ及び周辺で約6000人程度(資料により差がある)が[28]科学アカデミーや発電所の建設に使役された[6]。市内には日本兵捕虜が葬られた墓地が3か所存在する[6]

工業化の進展

戦後も開発が進んだ。市の人口は、1919年の104,000人から1968年には365,000人に増加した。1967年までに145の企業が進出し、その大半は軽工業と食品工業であった。

アルマ・アタの主な産業は、主に地元で豊富に採れる果物や野菜を原料とする食品加工(総産業生産高の36%)、軽工業(31%)、重工業(33%)であった。この地域の主な生産物は以下の通りである:

  • 食品:食品:食肉、小麦粉、穀類(パスタ工場)、牛乳、ワイン、缶詰の果物、タバコ、菓子、アルコール蒸留酒、ビール、酵母、茶(パッケージング)
  • 軽工業:織物、毛皮、ニット、絨毯、履物、アパレル、印刷、アルマトイ・コットン・コンバイン
  • 重工業:電気工業、鋳造工業、自動車修理、ベアリング修理、建築資材、木工、コンクリート構造および構造要素、住宅建設。

1960年から1986年までのディンムハメッド・コナエフがカザフスタン共産党中央委員会第一書記を務めていた時代、町の景観が整備された[7]。1966年から1971年にかけて、140万平方メートルの公営住宅と協同組合住宅が建設された。年間約30万平方メートルの住宅が建設された。この時期に建設された建物の大半は、耐震性のある多層建築であった。ソビエト連邦政府は、より変化に富んだ街並みを作るため、建築形態を多様化させようとした。この時期、レーニン宮殿、カザフスタン・ホテルメデオ・スポーツ・コンプレックスなど、多くの学校、病院、文化施設、娯楽施設が建設された[29]

1974年3月15日には、アルマ・アタで処女地開拓20周年記念式典が開催され、ブレジネフ書記長が直々に訪れた[30]

1975年12月26日、超音速輸送機ツポレフTu-144が就航し、モスクワ-アルマアタ間で郵便や貨物を輸送し始めた。1978年6月1日のアエロフロートによる飛行が、Tu-144の55回目の定期旅客飛行であり、最後の飛行であった。

1978年にはプライマリ・ヘルス・ケアに関する会議が開催され、アルマ・アタ宣言が採択され、世界の公衆衛生のパラダイムシフトを示した。

1986年、ミハイル・ゴルバチョフはコナエフをカザフ党第一書記(政治局員)から解任し、後任にロシア人のゲンナジー・コルビンを選出した。第一書記は共和国の基幹民族出身者から選出する慣行に反する上、カザフスタンと全く繋がりのないコルビンの起用はカザフスタンの学生たちの反発を招いた[31]。このため、1986年12月17日朝から12月18日夜にかけて、ブレジネフ広場(現在の共和国広場)で大規模なカザフ人暴動が発生した(アルマアタ事件[32]

1988年9月7日、地下鉄アルマトイ・メトロ・プロジェクトが着工し、2011年12月1日に23年ぶりに開通した[33]

ソ連の崩壊による独立後

カザフスタンは1991年12月16日(カザフスタン独立記念日)にソビエト連邦からの独立を宣言し、アルマ・アタはカザフスタン共和国の首都に定められ、1年後の1993年1月28日、政府は都市名をロシア語のアルマ・アタからカザフ語のアルマトイに改称した[34]。1997年、カザフスタン共和国大統領ヌルスルタン・ナザルバエフは首都を同国北部のアスタナに移転する政令を承認し[35]、翌1998年1月に遷都が行われた。1998年7月1日、科学、文化、歴史、金融、および産業の中心地としてのアルマトイの特別な地位を確立するための法律が成立した[34]

2030年に向けたアルマトイ市の新総合計画が1998年に発表された。同計画は、アルマトイ市において、安全、安心、かつ社会的に快適な生活環境を創出することを目的としている。主な目的は、庭園都市としてのアルマトイ市のイメージを促進することである。 同計画では、集合住宅および戸建て住宅の継続的な開発、工業地区または地域の再編成、交通インフラの改善、アルマトイ地下鉄の拡張などが提案されている。アルマトイ地下鉄の1号線は、予定より2週間早く、2011年12月1日に開通した。同路線のカルカマンまでの延長は2015年に開通した。

とはいえ、アルマトイでは大気汚染が大きな問題となっている。1995年にはすでに、当時は主に市内の火力発電所から排出されていた粒子状物質が、カザフスタンおよびEUの基準を20倍以上上回っていた[36]。 5倍増加しており、主要な産業施設がないにもかかわらず、呼吸器疾患、内分泌疾患、血液疾患、がん、気管支喘息に関しては共和国で第1位を占めている[37]。モバイルアプリを使用した独立した地域の大気質モニタリングシステムが2017年に開始された[38][39]

近年、カルカマン、コック・トベ、ゴルニー・ギガント地区(山の巨人)といった郊外の集落が併合され、市域が拡大した。数多くの団地やオフィスの高層ビルが、山の中に作られた町の顔を一変させた。シャニラクのような不法占拠者居住区は、こうした開発計画に直面して立ち退きに抵抗している[40]。2016年7月、アルマトイは悪名高いテロ攻撃の舞台となり、ジハード主義者のルスラン・クリクバエフが銃撃戦とカーチェイスで警察官8人と民間人2人を殺害した。クリクバエフは銃撃戦で負傷し、後にこのテロで死刑判決を受けた。 2020年3月、アルマトイでCOVID-19の最初の感染者が報告された[41]。まもなく、パンデミックによってアルマトイの様子が一変した。政府はほとんどの施設の閉鎖を課した[42]

2022年の冬季オリンピック開催地に名乗りを挙げるも決選投票の末に中国の北京に惜しくも敗れ初のオリンピック開催はならなかった。

2022年1月、燃料価格が2倍に値上がりしたことに抗議する住民らのデモ隊の一部が警察や治安部隊と衝突。警察はスタングレネード催涙ガスで対抗したが支えきれず、暴徒は市庁舎に乱入し放火旧大統領官邸ロシア語版を占拠するなどした[43][44][45][46][47]


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