解放奴隷
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解放奴隷(かいほうどれい、英: Freedman, 羅: Libertus)とは、奴隷制の社会において奴隷身分より解放された人々のこと。歴史的文脈においては、特に古代ローマとアメリカ合衆国の解放奴隷を指すことが多い。
古代ローマ
古代ローマ時代において、当初は「解放奴隷」の階級は解放された奴隷自身ではなく、その息子の世代を意味していたが、帝政期には解放された奴隷自身を指すようになっていた。また、解放奴隷には土地を所有する権限が与えられた。解放された奴隷の息子の世代は、立派なローマ市民として扱われた。
解放奴隷は解放した主人の個人名と氏族名を名乗り、自身の名前を家族名として用いた。マルクス・トゥッリウス・キケロの速記者として知られている奴隷ティロは、解放後にマルクス・トゥッリウス・ティロと名乗った。多くの解放奴隷は解放後もかつての主人やその一家と関係を持ち続けた。解放された奴隷は主人をパトロヌスとするクリエンテスとなった。
奴隷が解放奴隷となる方法はいくつかあり、主人の遺書により解放される例もあれば、生前に主人より解放される場合や、奴隷自身が主人から自由を金で買う事もあった。ただ、古代ローマにおいて奴隷を解放するには、奴隷解放税を納める必要があった。納税義務があったにもかかわらず、古代ローマの奴隷所有者は奴隷を解放するのに熱心であった。帝政時代の全人口のおよそ5 %を解放奴隷が占めていた。その理由はいくつか存在する。
- 善意
- 上述のとおり、主人の死後に遺書により解放されるケースが多かった。古代ローマ人は、自分の遺族に多額の財産を遺す事に熱心で無く、奴隷解放という善意が行いやすかった。
- 奴隷の労働意欲を高めるため
- 古代ローマの奴隷は肉体労働だけでなく、知的労働をする奴隷も数多くいた。肉体労働は暴力的な強制によって従事させる事が可能であったが、知的労働を行う奴隷の意欲を高めるには、暴力的な強制では不可能であった。そのため意欲を高める方法のひとつとして、一定期間労働に従事した後の解放を約束したのである。上記のキケロの速記者のティロのケースはこの典型である。
- クリエンテスを増やすため
- 数多くのクリエンテスを持つのは、ローマの貴族のステイタスであり、かつ公職選挙における票田となるなどの社会的実利も伴っていたため、クリエンテスを手っ取り早くかつ確実に増やす方法として、奴隷の解放が行われた。
- 忠実な部下・奴隷の監督者として
- ローマの貴族が農園経営、商業、その他の事業を行う際の忠実な部下として、その才能を見込んだ奴隷を解放した。特に多数の奴隷を所有する貴族の場合、その奴隷の監督者が必要であるが、それには自らも奴隷の経験がある解放奴隷が適任であった。
- 役人・官僚として
- 古代ローマの官職は、貴族が自らの名誉を得るため、あるいはノブレス・オブリージュを果たすための無償奉仕であった(もちろん、官職に伴う利権はあったが)。貴族が就任する上級職だけでは国家運営はままならず、中下級の役人、官僚が必要であった。下級役人は官職についた貴族が個人的に所有する奴隷がその任に就き、それらの上位者としての中級職に解放奴隷が就いた。
- 解放奴隷からの収益
- 解放奴隷は実際には上述の通り、元の主人の部下となり、解放された後も一定期間の労働奉仕をする場合が多く、奴隷を解放した事での主人の経済的損失が小さかった。加えて、財産を持った解放奴隷は、遺産を元の主人に贈与する例が多く、利殖の才に長けた奴隷を解放する事は、むしろ元の主人の利益となる場合すらあった。
皇帝に即位するまで騎士階級に留め置かれ、元老院階級に友人や協力者を得ることがなかったクラウディウスは統治に解放奴隷を積極的に利用し、今でいう閣僚クラスにも秘書官として解放奴隷を登用した(今日、アメリカにおける各省庁の長官を指す英語が「Secretary」であり、秘書と同語なのは、これに由来する)。このクラウディウスの解放奴隷の重用はローマ帝政の官僚制を進めることとなった。しかし、五賢帝の時代にもなると、騎士階級のクルスス・ホノルムも整備され、公的に官僚を供給するルートも確立されたため、解放奴隷が統治の重要な任務を担うことは少なくなっていった。
解放奴隷出身の著名人物
関連する文学作品
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国における「解放奴隷」 (freedman) は、南北戦争以前から南北戦争後に解放された元黒人奴隷について表す。なお、性差の無い表現として freedperson という用語が存在する。
奴隷解放宣言と合衆国憲法修正第13条の結果、アメリカ南部にいた400万人の黒人奴隷は束縛から解放された。解放宣言は、南部州にいる黒人奴隷は本質的に「自由」であることを言及したが、奴隷制からは解放されなかった。彼らの奴隷制から自由への移行を助けるため、リンカーン大統領は解放黒人局を創設した。修正第14条は、元奴隷に市民権を与えた。修正第15条は、解放奴隷に選挙権を与えた。これらの修正第13条から15条は、「公民権修正条項」として知られている。
イスラム世界
イスラーム教において、奴隷を解放することは最後の審判の後、天国に迎えられるために望ましい善行とみなされていたので非常に積極的に行われた。奴隷は解放によって社会身分上は自由人にまったく劣らない資格を獲得することができた。
しかし、解放されても奴隷はイスラム社会の部外者であり、必然的に元所有者との間に保護されねば生きて行けなかった。そのため、元の所有者とは一種の主従関係が生まれ、有力者の子飼の商人や私兵などになった。
その中でも特に有名なのはマムルークである。遊牧民の子弟を積極的に奴隷として買い取り、然る後に解放して[要出典]忠実な兵士としたのである。マムルークの中には有力者(アミール)として出世した者もおり、そうした有力者も自らと同じ出自の者が信頼できるとして盛んに奴隷を購入し、マムルークとした。そしてとうとうエジプト・インド・イラクにおいて、マムルークによる王朝が成立するまでになる。
日本
- 日本においても、楽市場といった特別な環境下において奴隷解放が見られ、「楽市令」の特許条項の一つに、「逃亡奴隷や犯罪人が市場内に入った場合、その追求をまぬがれ、市場住人(宗教下における売買人)となることで解放される」とある。この場合、楽市といった限定的な環境下(縁切り場)でのみの奴隷解放となる。
関連項目
- 古代ローマ
- アメリカ合衆国・カナダ
解放奴隷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/14 17:19 UTC 版)
『ヤシの葉』の最後の手紙2通はフロリダで新たに開放された奴隷を取り上げている。ストウが慣れているよりも大人しくはない2人の屈強な女性が書かれている。1人は畑の働き手が家庭内労働に変わったミンナという女性であり、ストウが家事はどのようにするか教えようとしても無駄だった。その発言があまりに歯に衣着せないものだったので、ストウは、「民主主義は彼女たち年取った黒人女性のある者よりも凶暴な形を取ると見なすことはない。彼女達は次の瞬間にそのために死ぬのであれば、王座に座る国王に長談義をするだろう。従ってミンナの背中は自由な発言に対する専制君主の答が書かれ、刻まれている。」と記している。ミンナは最後は野良に戻って幸せになった。もう一人はジュディであり、朝も昼もその夫と別れてくることに無頓着で楽しんでもいる。ストウは、彼女たちの労働倫理がお粗末な訓練によるものだとし、「奴隷制度によって取り込まれた怠慢」だとした。真に才能あり懸命に働く黒人労働者は家事労働から製造業に移っており、その労働に対して対価を要求できる、と記した。 ストウはミンナとジュディを幾らか鎮められた怒りを持って表現しているが、コモドア・ローズという川船の客室係は褒めている。ローズは元、船長が所有する奴隷だったが、船の事故が起きた時に船長の命を救ったことで自由の身にされ、解放後も船長のために働き続けていた。彼女はミンナやジュディと同様歯に衣着せないが、川のあらゆる場所に詳しく、岸沿いの家屋や場所、さらにその歴史まで知っていた。船とその客に関する彼女の知識は誰にも負けないものであり、乗組員や客は全て、あらゆる事について彼女の意見に敬意を表していた。 別の話では、ストウと夫のカルビンがマンダリンの港である男と出逢った。その男は政府から与えられた土地の多くを騙し取られていた。年寄りカジョーと呼ばれ、小さな家産で働き、長年綿花を育ててきていた。当初サウスカロライナ州からの元奴隷のコロニーを囲む地区におり、躊躇い勝ちで懐疑的だった年寄りカジョーとその仲間は、勤勉で正直だったので、隣人の白人に勝る者達だった。元は治安判事だった者が自分のために干渉して、年寄りカジョーの土地が彼に戻された。ストウの最後の章は、黒人がフロリダ州を荒野から文明に転換するために、建設を援けるべく雇われるべきという考え方を弁護するために使われている。彼らは暑い太陽の下で働くことに適合でき、マラリアにも強く、信頼に足り、学ぶことに大変熱心である。ストウは彼らの文化について興味ある観察に数ページを割いており、彼らの夜の祭や非公式礼拝の外で座っていることを漏れ聞いて詳述している。
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