キルケゴール
英語:Kierkegaard
「キルケゴール」とは、西洋哲学史において「実存哲学の先駆者」と位置づけられる19世紀デンマークの思想家・哲学者・神学者である。主著に「死にいたる病」や「不安の概念」などがある。
キルケゴールのフルネームは「セーレン・オービエ・キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard)」である」。訳書によっては「セーレン・オービュ・キェルケゴール」とも表記される。
キルケゴールの生涯
キルケゴールは、1813年にデンマークの首都コペンハーゲンで生まれた。父ミカエルは裕福かつ敬虔なキリスト教徒であったが、常に神を恐れていたという。父の厳格な宗教教育と、その裏に秘められていた罪悪感は、息子セーレン・キルケゴールの人生や思想に多大な影響を及ぼしている。キルケゴールは幼い頃から、聡明で、ユーモアに富み、かつ、憂愁を秘めた性格だったとされる。大学では神学と哲学を学んだ。
キルケゴールが20代なかばの頃、レギーネ・オルセンという女性と出会い、衝撃的に恋に落ちる。キルケゴールは、まだ17歳のあどけない少女だったレギーネに求婚し、受け入れられる。しかしキルケゴールは、しばらく後に婚約を一方的に破棄してしまう。
この婚約破棄(「レギーネ事件」とも呼ばれる)がなぜ起きたのか、真相は詳らかでない。とはいえ、葛藤や苦悩の末に行き着いた結論であることには違いない。キルケゴールは、婚約破棄事件の後、著作家として執筆活動を始める。一連の著作の中には、同じ婚約破棄のシチュエーションを主題としている作品や、婚約破棄にまつわる思考実験とも解釈しうるような作品がいくつもある。
レギーネの存在と婚約破棄事件は、キルケゴールの思想、信仰、執筆活動に多大な影響を及ぼしている。ちなみにレギーネ自身は後に地位のある他の人物とめでたく結婚している。
執筆活動を始めたキルケゴールは、1843年の「あれか-これか」を皮切りに、小説スタイルの著作(いわゆる「審美的著作」)や哲学論文スタイルの著作(いわゆる「哲学的著作」)を矢継ぎ早に上梓している。なお、これらの著作はいずれも匿名で、作品ごとに異なる偽名を使って刊行されている。
執筆活動が後半に至ると、キルケゴールはキリスト教の教化を主題とする講話(いわゆる「宗教的著作」)を集中的に世に問うようになる。これらの宗教的著作は、いずれも実名で刊行されている。
キルケゴールの著作
- 「あれか-これか」
- 「おそれとおののき」
- 「反復」
- 「不安の概念」
- 「哲学的断片」
- 「哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき」
- 「人生行路の諸段階」
- 「愛のわざ」
- 「死に至る病」
- 「現代の批判」
- 「キリスト教の修練」
- 「野の百合 空の鳥」
- 「わが著作活動の視点」
- 「瞬間」
- 「イロニーの概念」(※学位論文)
キルケゴールの思想の概要
キルケゴールの思想は、既存の(当時の主流だった)神学や哲学に対する批判的な立場から出発している。とりわけ、当時一世を風靡していたヘーゲル哲学に対してキルケゴールは厳しく批判した。ヘーゲルの弁証法では、物事はいったん否定されるも止揚(アウフヘーベン)によって綜合され、高次元へ推移する。キルケゴールは、主に人間存在について、このような止揚と綜合(正反合)からなる弁証法的推移の可能性を否定する。人間存在は、正・反・合と整然と推移するのではなく、主体的な決断と選択、そして質的飛躍を経て高次元へ推移するという。
要するにキルケゴールは、個人が自らの存在を真剣に問い、主体的に真理を選び取ることでのみ、自らを真理に近づけることができると考えた。そうして「実存哲学」という後世の潮流に先鞭をつけたわけである。
哲学史においては「死に至る病」がキルケゴールの主著と位置づけられるが、「死に至る病」はキリスト教の信仰について哲学的な分析や洞察を深めていく書である。本書のキーワードである「絶望」も、一般的な意味とは一線を画す。日本人にとっては難解である。
「あれか-これか」や「反復」などは随筆や小説の体で書かれており、とっつきやすい。
なお「キルケゴール(Kierkegaard)」はデンマークの人名(姓)である。この19世紀の思想家セーレン・キルケゴールは、キルケゴール姓の代表的な人物といえる。他にも同姓の人物はいる。たとえばデンマーク出身の3人組ロックバンド「H.E.R.O.」のドラマーはキルケゴールという。
キェルケゴール【Kierkegaard】
読み方:きぇるけごーる
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