デカルト (Descartes, Rene)
デカルトという人は
フランス中部、トゥーレーヌ地方のラ・エイに、高等法院評定官で法服貴族の家系として生まれ、 10 歳でイエズス会のラ・フレーシュ学院に入学してスコラ的学問に飽き足らず思い、 卒業後は「世間という大きな書物」において学ぼうと決意して旅に出る。 1618 年、志願将校としてオランダ軍に入り、オランダの医師イサーク・ベークマンと知り合い、 物理数学的研究への刺激を受け、やがて「普遍数学」の構想に達する。 32 歳のときオランダに移住する。
地動説を重要な内容とした『宇宙論』の構想をもつが、 1633 年に地動説を唱えたガリレイがローマの宗教審問所で有罪になったことから公刊を断念する。 いざ印刷というときであった。
デカルトの主な経歴
1637年、オランダのライデンで”方法叙説”を発刊する。 正式な書名は「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の序説。 加えてその方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」である。
「屈折光学」では光の性質について触れているのだが、この問題は後にニュートンの粒子説とヤング、ホイヘンスの波動説で激しい論争が展開される。 嫌気がさしたニュートンは最終的に光の研究から身を引くことになるのだが、 デカルトの説は粒子説とも波動説ともとれる内容であるため、玉虫色と評されることがある。
ルネ・デカルト
”方法叙説”はヨーロッパ近代に思想的な地平を開き、精神と物質の二元論、意識、自然観などの概念とともに、 当時思想的な著作はラテン語で書かれるのが常であったのを、初めてフランス語で書かれた哲学書としても評価されている。
キリスト教の教義を弁証するため、 アリストテレスの哲学を用いた形式的な論法を発展させたスコラ的学問と呼ばれるものがヨーロッパを席巻していた。 アリストテレスの哲学は当時では大前提であり、無批判に受け入れた長い歴史があった。 このような時代背景のなか、デカルトはこれを超える考え方、 つまり「我思う、故に我あり」といった、世間はどうあれ自分はこう考えるという哲学は、教会にとっては危険なものであったといえる。 オランダに隠れ、やがてはデカルトの考えに賛同する人が現れていく。こうして新しい時代が生まれていった。
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