32年ぶりのW杯出場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/17 17:00 UTC 版)
「オーストラリアサッカー連盟」の記事における「32年ぶりのW杯出場」の解説
一般的にサッカーの発展には、「国内リーグ」の成長と「代表」の強化の両輪が必要である。Aリーグが発足した次は代表強化であった。オーストラリア代表は、FIFAワールドカップ・西ドイツ大会に初出場して以来、32年間世界の舞台から遠ざかっていた。移民が多いオーストラリアは欧州リーグでプレーしている選手が多く(例えば、FIFAワールドカップ・日韓大会のプレ大会を兼ねた2001年日韓コンフェデレーションズカップ(以下コンフェデ杯と略)でのオーストラリア代表は大会登録メンバー23人中、オーストラリアのクラブに所属していたのはわずかに4人)、個々の実力ではFIFAワールドカップに出場してもおかしくはないほど上がっていた。実際、オーストラリア代表は1998 FIFAワールドカップ・予選、2002 FIFAワールドカップ・予選と2大会連続で以前と同様に大陸間プレーオフで出場を阻まれたものの、いずれも惜敗(アウェイゴール数の差など)であった。2度目のFIFAワールドカップ出場は現実的な目標となっていたのである。 FIFAワールドカップ2度目の出場の最後の決定打となったのは世界的名将フース・ヒディンク監督招聘であった。オーストラリア代表はFIFAワールドカップ・ドイツ大会のプレ大会を兼ねたFIFAコンフェデレーションズカップ2005グループリーグA組を勝ち点0の最下位で終えると、フランク・ファリーナ監督を更迭し、異なるチームでFIFAワールドカップ2大会連続ベスト4を成し遂げたヒディンク監督招聘を決断。同監督招聘には、多額の資金(例えば後の時代だが同監督のロシア代表監督時代の年俸は700万ユーロ(約8億7170万円))と熱意(ヒディンクは当時PSV監督で契約が残っていた)が必要とされたが、根気強く交渉を続けヒディンクの監督招聘に成功した。当時のオセアニア予選はセントラル方式で行われ、2次予選(最終戦は1年前の2004年6月6日)での上位2カ国が2005年9月3日と9月6日の最終予選を戦い、その勝者が2005年11月12日と11月16日の南米5位との大陸間プレーオフ2試合を戦うという期間に余裕があるものだった。ヒディンク監督招聘時点で、残る試合は2005年9月3日と9月6日の最終予選2試合と同年11月12日と11月16日の南米5位との大陸間プレーオフ2試合だった。期間に余裕があることを逆手に取り、PSVとの契約中で難色を示したヒディンクにPSV監督と兼務で構わないと説得した(実際のところ、当時オセアニアにオーストラリア代表に勝てる相手は皆無で、4ヵ月後の大陸間プレーオフのみに照準を合わせればよかった)。また、オーストラリア代表選手の主力の多くが欧州でプレーしていたこともプラスに働いた(PSV監督をしながら視察できる為)。 ヒディンク監督はPSVの監督を兼務したまま、2005年7月にオーストラリア代表監督に就任。オーストラリア代表は9月の最終予選における対ソロモン諸島2試合を7-0、2-1で勝ち上がり、南米予選5位のウルグアイ代表との大陸間プレーオフに進出した。11月12日第1戦アウェイ(ウルグアイのホーム)でのウルグアイ戦では敗れはしたものの最小失点で切り抜け(0-1)、ホームでの第2戦に臨んだ。この際、カンタス航空が協力し特別なチャーター機を手配した。35人の代表選手団に対し220人乗りのジャンボ機を用意し、帰国の準備が出来次第すぐに離陸した。負傷者の負担を減らす為、低い高度で飛び、時差に早く適応できるような工夫をした。機内には疲労を取り除くためにマッサージ台の設置、特別な食事メニュー、酸素ボンベの供給などあらゆるものが準備されていた。対して、ウルグアイはチャーター機を用意できず、2度のトランジット(経由地での航空機乗り換え)を余儀なくされ、疲労困憊で第2戦に臨む羽目になった。ホームでの第2戦を1-0で勝利し、これで1勝1敗、2試合合計スコアも1-1と並び、PK戦に突入。これを4-2で制し、ついに32年ぶりの本大会出場を決めた。さらに、ヒディンク監督が引き続き指揮を執ったオーストラリア代表は本大会でも、ベスト16という大躍進を見せた。
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