32年ぶりの本大会出場
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「サッカーオーストラリア代表」の記事における「32年ぶりの本大会出場」の解説
2003年から政府の後押しを受けたオーストラリアサッカー連盟は様々な改革に着手した(詳細は、オーストラリアサッカー連盟のオーストラリアサッカー革命の項を参照)。 FIFAコンフェデレーションズカップ2005でグループリーグA組を勝ち点0の最下位で終えた2005年にフース・ヒディンクが監督に就任した。 当時の予選は集中開催方式(集中開催方式)で行われていた。2次予選での上位2カ国が2005年9月3日および6日の最終予選を戦い、その勝者が2005年11月12日と11月16日の南米5位との大陸間プレーオフ2試合を戦うというものだった。ヒディンク監督招聘時点で、残る試合は最終予選2試合と南米5位との大陸間プレーオフ2試合だった。期間に余裕があることを逆手に取り、PSVとの契約中で難色を示したヒディンクにPSV監督と兼務で構わないと説得した。また、オーストラリア代表選手の主力の多くが欧州でプレーしていたこともプラスに働いた(PSV監督をしながら視察できるため)。ヒディンク監督はPSV監督を兼務したまま、2005年7月にオーストラリア代表監督に就任。 9月の最終予選に勝利して、南米予選5位のウルグアイと大陸間プレーオフで対戦。11月12日第1戦アウェーでは敗れ、ホームでの第2戦に臨んだ。この際、同国のフラッグ・キャリア(その国を代表する航空会社)であるカンタス航空が協力し特別なチャーター機を手配した。35人の代表選手団に対し220人乗りのジャンボ機を用意し、帰国の準備が出来次第すぐに離陸した。負傷者の負担を減らす為、低い高度で飛び、時差に早く適応できるような工夫をした。機内には疲労を取り除く為にマッサージ台の設置、特別な食事メニュー、酸素ボンベの供給などあらゆるものが準備されていた。対してウルグアイは直行のチャーター機を用意できず、二度の乗り継ぎを余儀なくされ疲労困憊で第2戦に臨む羽目になった。ホームでの第2戦を1-0で勝利し、2試合の勝敗・得点共に同じとなったためPK戦に突入して4-2で制し32年ぶりの本大会出場を決めた。 2006年独W杯本大会ではグループリーグ初戦の日本戦でW杯初勝利を挙げ、グループリーグも1勝1敗1分の2位で突破した。決勝トーナメントは1回戦でイタリアと対戦して敗れたが、32年ぶりの出場でベスト16入りと大躍進を見せた。
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