3期生の誕生
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1969年(昭和44年)1月18日から19日と東大安田講堂事件が起きた。翌年の第二次安保改定(70年安保)に向けて、全共闘と機動隊との攻防戦が全国各地で広まり緊張を増す中、楯の会と山本舜勝1佐は自衛隊治安出動に備えて分析を続けていた。 2月1日、論争ジャーナル組(楯の会)と日学同との架け橋役であった森田必勝が、論争ジャーナル組側に完全に傾き、仲間の小川正洋(明治学院大学法学部)、田中健一(亜細亜大学法学部)、野田隆史(麻布獣医科大学)、鶴見友昭(早稲田大学)、西尾俊一(国士舘大学)と共に日学同を脱退した。 この6名は田中健一の下宿先である新宿区十二社(西新宿4丁目)にあるアパート小林荘8号室をたまり場にしていたため「十二社グループ」と呼ばれ、テロルも辞さない一匹狼の集団であった。日学同の宮崎正弘は追随者を出さぬよう森田ら6名の日学同脱退を除籍処分とし、除籍理由を「共産主義に魂を売り渡したため」と『日本学生新聞』に書いた。 2月15日に謄写版の楯の会機関誌『楯』創刊号(限定100部)が発刊され、三島は隊長として以下のような文を寄せた。 いよいよ今年は「楯の会」もすごいことになりさうである。第一、会員が九月には百名になる予定。第二、時代の嵐の呼び声がだんだん近くなつてゐることである。自衛隊の羨望の的なるこの典雅な軍服を血で染めて戦ふ日が来るかも知れない。期して待つべし。そのためには、もう少し、諸君のピリッとしたところが見たい。例会集合時の厳守や、勧誘・提案に対する活潑な反応など。 — 三島由紀夫「『楯の会』の決意」 2月19日から23日まで板橋区の松月院で合宿し、山本1佐の指揮の下、三島を含めた楯の会28名の特別訓練が行われた。厳寒の中、暖房もない吹きっさらしの本堂で、夜は寝袋、食事は持参の缶詰の生活での講義や座禅修業、朝霞基地の周辺視察・潜入実習という過酷な教育訓練だった。 3月1日から29日まで、第3回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で行われ、27名が参加した。この第3回体験入隊で、小川正洋、鶴見友昭、田中健一の「十二社グループ」、福田俊作、勝又武校、金森俊之、藤井雅紹、仲山徳隆の「尚史会」、川戸志津夫(社会人)、村上健夫(京都大学工学部)、細郷輝久、牧野隆彦、柳川一彦、栗原智仁などが3期生となった。これで楯の会会員は全70名となった。 これと並行し、3月9日から15日には、体験入隊経験者(会員)を対象とする上級者向けのリフレッシャーコース(Refresher Course)の訓練も行われ、24名が参加した。「玩具の兵隊さん」と世間から呼ばれていた楯の会の実態は、自衛隊の将校も驚くほど精鋭されていった。リフレッシャーコースは、3・6・9・11月の年4回行われるようになった。 イギリス人の記者・ヘンリー・スコット=ストークスがこの第3回の体験入隊を取材し、ロンドンの『ザ・タイムズ』に記事掲載した。4月13日には、ストークスの記事を読んだロンドンのテムズ・テレビが、市ヶ谷会館での楯の会4月例会の取材に来て、訓練の様子を撮影した。 4月16日から、毎週水曜日の空手の稽古後の午後3時から5時まで、銀座の画廊「月光荘」の地下1階にある会員限定高級クラブ「サロン・ド・クレール」で、三島と会員たちが自由に談話できる場を設けた。「サロン・ド・クレール」は中村曜子(中村紘子の母親)が経営する店で、政財界の著名人が多く会員となっていた 4月28日の沖縄デーの日、三島と山本1佐は、新左翼全学連のゲリラ活動や激しい渦巻きデモを視察した。中核派などに破防法が適用されて965人が逮捕された。視察の後、三島は山本1佐を皇居に面する国立劇場に連れて行き、エレベーターで舞台下の奈落を案内しながら、「奈落は、私の信頼する友人が管理しています。いつでもお使い下さい」と言った。 この頃、山本1佐指導の訓練はさらに強化されていたが、三島は山本1佐との訓練とは別に、自身の主宰する劇団「浪曼劇場」の建物を拠点として楯の会の独自訓練も展開していた。三島は生活時間の大半を楯の会の訓練に没入していた。
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