2005年、2度目の大連立発足
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:46 UTC 版)
「ドイツ社会民主党」の記事における「2005年、2度目の大連立発足」の解説
2005年7月、シュレーダー首相は自らの信任決議案を与党に否決させ、連邦議会の解散総選挙(9月18日投票)に打って出た。解散当時の支持率は、最大野党CDU/CSUに大きく水を開けられており、政権を奪われる可能性が高いといわれていたが、選挙戦終盤に盛り返し、第1党の座を失ったもののCDU/CSU側とはわずか4議席差にまで肉薄した。そのため選挙後の連立交渉は難航した。シュレーダーはCDUとCSUを別々の政党と考えれば社民党が第一党であるので自分が引き続き首相を務めるべきと主張したが、この理屈は通らず、結局CDUのアンゲラ・メルケルに首相を譲ることとなった。そして社民党はCDU/CSUとキージンガー政権以来の保革大連立を組むことで与党に留まることになった。 2005年11月にミュンテフェーリングが総選挙敗北を受けて次期党首選への立候補を断念し、代わってブランデンブルク州首相のマティアス・プラツェックが党首に就任することとなった。旧東ドイツ出身者がSPDの党首になるのは初めてであり、CDUのメルケル首相と共に旧東ドイツ出身者が連立与党の党首としてドイツの舵取りをすることになるかと思われたが、4月には病気を理由に辞任。 代わってラインラント・プファルツ州のクルト・ベック州首相が暫定党首に選出され、その後正式な党首となった。ベックの下、2006年9月に基本綱領委員会が創設され、2007年1月には「ブレーメン草稿」と呼ばれる綱領草案が発表された。ワークフェアの基礎となるシュレーダー的な理念「予防的福祉国家」を強調する一方「所得分配によるより多くの平等」という伝統的な社会民主主義の理念も盛り込まれていた。この草案を叩き台に党内議論が行われたが、概して党の下部組織層は「予防的福祉国家」理念に否定的であり、逆に大連立に参加している指導層はシュレーダー改革を否定する動きを警戒していた。結局「予防的福祉国家」については後退した表現に修正され、2007年10月の党大会でハンブルク綱領(ドイツ語版)として採択された。この綱領はシュレーダーの「新中道」や「アジェンダ2010」の理念を一貫した方向性としては刻印していない点やグローバル資本主義を批判している点などから「左派回帰」の綱領と評価されることも多いが、ゴーデスベルク綱領以来の「可能な限り市場を、必要な限りで規制を」という市場経済重視の姿勢は明確に堅持しているし、「予防に重点を置く社会国家」の章では就業支援のための教育を社会政策の中心に据えて失業率低下を図るべきであるというシュレーダーの政策を引き継ぐ考えも見られ、全体としては右派と左派の折衷的な性格が強かった。経済以外の問題では、教育については5年生(約11歳)で成績に応じて3つの学校に分かれる現行制度を10年生(約16歳)までは全生徒同じ教育を受けるよう改革することや大学の授業料導入に反対することを謡っている。移民問題では技術を有した移民を歓迎するとしつつ「移民国ドイツ」という表現を使うことで差別なく移民を受け入れる立場も暗示している。徴兵制問題は「一般徴兵制の近代化」と「志願兵構想の強化」を謳い、外交では国連重視や将来のヨーロッパ軍創設の可能性に言及している。 2008年9月にクルト・ベック党首が突如辞任、10月これに替わってフランツ・ミュンテフェーリングが党首に復帰した。しかし政権のジュニアパートナーの社民党は現実路線を取らざるを得ず、CDUのメルケル首相の中道路線のもとにあって埋没していった。最低賃金制度導入の訴えは伝統的な社会民主主義に近い政策だったが、売上税の引き上げ、健康保険改革、年金支給開始年齢の67歳への引き上げなどは社民党の支持層から不評を買うものだった。
※この「2005年、2度目の大連立発足」の解説は、「ドイツ社会民主党」の解説の一部です。
「2005年、2度目の大連立発足」を含む「ドイツ社会民主党」の記事については、「ドイツ社会民主党」の概要を参照ください。
- 2005年、2度目の大連立発足のページへのリンク