1990年代~晩年
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後年はプロデューサーとしても活動し、1991年(平成3年)から1993年(平成5年)にかけては、京都大学西部講堂を舞台に「美・詩・音・舞」を総合的に取り入れたイベント「AGAフェスティバル」のプロデュースや、サウンド・パフォーマンス・ユニット現代家族で活動した。現代家族は、ヨシダミノルが妻子と共に現代美術の1ジャンルとして立ち上げたグループで、作品展示と即興演奏や詩の朗読を交えたパフォーマンスを行い、アンデパンダン展やグッドアート展においては、美術の型にはまらない多様なジャンルの融合した芸術作品へと変貌を遂げていく。1970年代のアメリカ在住期から、写真誌『ライフ』などで第二次世界大戦の全体像や戦後の世界情勢を把握していたヨシダは、終わらない戦争や環境問題に高い関心を寄せ、西欧諸国の対応と比べて、日本はアメリカの傘下でエコノミーアニマル化したと嘆き、政権の汚職や経済の発展と引き換えに生じた環境汚染に警鐘を鳴らした。1979年(昭和54年)に設立 されたグッドアート展では、「私達グッドアーティストは、地球全体に気や、ネットワークを位置して、中間子的存在の現実芸術がどの様にシンクロするかを知る必要がある。」と提唱し、1995年(平成7年)の第20回グッドアート展では、大空ライブ美術として、フランスや中国の核実験を批判するとともに、「生きることは路上に立つことに始まり、反核、反戦、反芸術活動も幸福平和を維持するための行動であれば、次の時代には芸術になりうる」と表現した。 2007年(平成19年)9月19日から10月14日にかけて、NPO法人赤煉瓦倶楽部舞鶴が主催し舞鶴市で開催された現代美術展「ヒカリノカタチ」展では、京丹後市網野町在住のアーティスト池田修造と共同で、重要文化財であり近代化産業遺産でもある舞鶴赤レンガ倉庫群そのものの空間と現代アートのコラボレーションを演出、光をテーマに文化や地域性を問いかける作品展示を行うなど、地域アートにも関心を寄せた。 病に侵され、あまり動けなくなった晩年は、多くの時間をリビングキッチンの椅子で過ごし、ポストカードサイズの紙に絵の具を置いて紙を折り合わせたデカルコマニー作品を多く制作した。2010年(平成22年)10月23日、肝臓がんのため死去した。享年75歳。
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