1990年代-現代
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「第173空挺旅団 (アメリカ軍)」の記事における「1990年代-現代」の解説
1990年代後半、米軍再編に伴い、旅団は、アメリカ欧州陸軍の即応部隊として再活性化されることとなった。編制は歩兵旅団戦闘団のものが採用されて、第173空挺旅団は2000年6月12日に再活性化され、アメリカ欧州軍の南欧任務部隊(SETAF)の実戦部隊としてイタリアに配備された。 2003年、旅団はイラクの自由作戦に参加するためシリアに派遣され、イラク北部への攻撃配置についた。当初計画では、旅団の左翼、トルコに第4歩兵師団が展開することとなっており、旅団は第4歩兵師団の側面を掩護する機動部隊として運用される計画であったが、トルコ政府の反発によって第4師団が配備できず、イラク北部への攻撃は第173空挺旅団と特殊部隊のみが担うこととなった。この攻撃を支援するため、1/63機甲大隊および海兵隊の無人機部隊が旅団に配属された。旅団は北方統合特殊作戦任務部隊(JSOTF-N)の一部となったが、旅団級の部隊が特殊作戦任務部隊に併合されるのは、陸軍史上初のことであった。3月20日、旅団はイラク北部への攻撃配置を第5軍団に引き継ぎ、3月26日には、バシュール飛行場に対する空挺降下(ノーザン・ディレイ作戦)を実施した。 ノーザン・ディレイ作戦では、旅団長ウィリアム・C・メイヴィル大佐を含む954名が夜間・低高度(300m)で降下を実施したが、夜闇と強風によって降下部隊は分散し、兵力の集結には時間を要した。しかし、アメリカ特殊部隊に支援されたクルド人民兵「ペシュメルガ」と連携しており、また敵の抵抗も微弱であったため、成功裏に飛行場を奪取した。以後、空軍のC-17輸送機26機による空輸が行なわれ、4日間で旅団の残余2,200名、M119 105mm榴弾砲 6門、車両 400両以上、貨物3000トンが輸送された。これはベトナム戦争に引き続いて2度目の空挺作戦であった。さらに引き続いて発動された機上のドラゴン作戦のもと、1/63機甲大隊の兵員300名と車両78両(M1A1戦車 5両およびM2A2歩兵戦闘車 5両を含む)が空輸され、戦力は増強された。 旅団はさらに、キルクークをめぐる戦闘に参加し、イラク陸軍の第2、第4、第8、第38歩兵師団と交戦した。4月10日、旅団はキルクークに突入し、短い市街戦ののち、これを制圧した。キルクークをめぐる戦闘で、旅団は兵力に大きく勝るイラク軍と交戦したが、負傷9名の損害を受けたにすぎなかった。その後、旅団はキルクークの警備を担当したが、この任務中、クルド人民兵による地元住民への暴行を見過ごしたとして批判された。また、市内を警備中に、クルド人民兵を警戒するトルコ軍が隠密裏に潜入させていた工作隊を検挙してしまうという騒ぎも発生した。このトルコ軍人は、外交交渉によって速やかに解放された。2004年2月2日、旅団は同市の警備任務を第101空中強襲師団に引き継いで、イタリアに帰還した。これは、翌年に予定されていたアフガニスタン派遣に備えた措置であった。 2005年3月、旅団はアフガニスタンに派遣された。旅団はバヨネット任務部隊として、カンダハールやヘルマンド州を管轄する南部地域司令部(RC-South)の指揮を担当したのち、2006年3月にイタリアに帰還した。この派遣期間中、旅団は17名の戦死者を出した。2006年10月11日、旅団は、正式に第173空挺旅団戦闘団に改名した。2007年春、旅団戦闘団は再びアフガニスタンに派遣された。この派遣では、旅団戦闘団の各部隊はアフガニスタン東部に分散配置され、2007年6月6日、第10山岳師団第3旅団戦闘団と交替して配置についた。この派遣は2008年7月に終了し、7月末までに旅団の全部隊がイタリアに帰還した。 2009年6月14日、旅団戦闘団は、再びアフガニスタンに派遣されることとなった。派遣は2010年初頭より開始される。
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