その後晩年まで
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1984年(昭和59年)から1年間初代マツダ財団理事長を務めた。1985年(昭和60年)から3年間広島商工会議所会頭を務めた。1998年(平成10年)からマツダ名誉会長および名誉相談役。その他、日本自動車工業会理事、広島県商工会議所連合会頭、広島県経済同友会理事、広島県サッカー協会会長、旧広島証券取引所理事長、広島日伯協会会長 など、多くの要職を務めた。1990年代の東洋工業蹴球部の後進であるサンフレッチェ広島プロ化にも尽力している。 2014年(平成26年)3月10日、老衰のため自宅で死去。99歳没。
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その後晩年まで
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1965年(昭和40年)に母校である早稲田大学教授に就任し、またIAAF技術委員などを務め長く後進を指導、選手育成に尽力した。国際陸連の技術委員を長く務めた織田の理論家としての名声は海外でも高く、東京・渋谷の自宅に教えを請いに来る人は、日本人より外国人の方が多かった。1980年(昭和55年)モスクワオリンピックボイコット騒動の時には、当初から反対つまり五輪参加に向けて動いていた。同1980年、織田を会長に日本マスターズ陸上競技連合が創立。1989年(平成元年)、JAAF名誉会長に就任し死去するまで務めた。 織田は晩年、色紙にはこの言葉を好んで書いた。 「強い者は美しい」 また、織田は1986年4月には以下のものを残している。 陸上競技訓 一、陸上競技は楽しく 一、美しい動きを作れ 一、身体の動きが技術 一、練習で自信を作る 一、笑えば緊張が解ける 一、力だけでは勝てない 一、走るには脚を前へ 一、跳ぶには前脚で 一、投げるには回転の早さで 一、速さは低い姿勢から立つ 織田は、晩年を夫妻で神奈川県三浦市油壺に暮らしていたが、妻の死を期に藤沢市鵠沼の有料老人ホームに入居した。1998年(平成10年)12月2日、織田は湘南鎌倉総合病院にてその生涯を閉じた。93歳没。 同1998年12月25日、国立競技場で織田のお別れ会が開かれた。墓所は鎌倉東慶寺に在る。 1959年に紫綬褒章を受章している。1976年IOCオリンピック功労章を授与。1988年陸上界初の文化功労者に選出。1984年渋谷区名誉区民、1985年東京都名誉都民、1986年故郷の安芸郡海田町名誉町民、1989年広島県名誉県民に顕彰。
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