ブラジル移住、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 20:34 UTC 版)
同じく長期残留日本兵として2年前に帰国し、驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、小野田の場合は、父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道もあり、戦前と大きく価値観が変貌した日本社会に馴染めなかった。横井との対談が何度か企画されたが、実現しなかった。理由は、横井が「天皇陛下より拝領された」兵器である銃剣を穴掘り道具に使ったことを聞き、小野田が横井との対談を拒否していたからだという。 帰国当初は大きな話題になったため、マスコミにつけ回され、一挙手一投足を過剰取材の対象にされて苦しんだ。帰国直後の健康診断のため小野田が入院した病院の周りをメディアが取り囲んだり、退院後に郷里の和歌山の実家に向かった後もメディアが殺到した。またヘリコプターが、ゲリラ戦時の敵軍航空機と重なって、悩まされた時期もあったという。帰国の半年後の1975年に、ブラジルで牧場を経む次兄を頼って移住し、兄と同じく小野田牧場を経営することを決意。バルゼア・アレグレ移住地 (マット・グロッソ州テレーノス郡(英語版): Fazenda Varzea Alegre Mun, de Terence, EST. Mato Grossa do sul.)にて、約1,200haの牧場を開拓。7年間は無収入だったが、10年を経て牧場経営を成功させ[要出典]、1,800頭の肉牛を飼育した。 1976年、東京で損害保険代理店を経営していた小貫町枝がブラジルに渡航し、小野田のもとに押しかけてきたことで知り合い結婚。町枝夫人は、その後晩年までブラジルと日本を行き来するようになる小野田のマネージャー役を務めるようになった。1979年5月に発足したバルゼア・アレグレ日伯体育文化協会初代会長に就任。 その後、「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として「祖国のため健全な日本人を育成したい」と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰(1984年7月)。全国の子どもたちにキャンプ生活の極意や初歩的なサバイバル術などを指導した。また、1988年にルバング島での潜伏生活の回想やサバイバル術などその後も多くの著書を刊行し、作家としても活動し、書店でサイン会も行うなどした。2004年ブラジル空軍より民間最高勲章メリット・サントス・ドモントを授与される。同年マット・グロッソ州名誉州民に選ばれる。 2010年7月当時、東京都中央区佃在住だった。 愛媛県議会議員・森高康行を始めとして政界とも交流をもつ。妻・町枝は2006年、安西愛子の後任として日本会議の女性組織・日本女性の会の会長に就任した。 保守系の活動家でもあり、日本を守る国民会議、日本会議代表委員等を歴任。社団法人日本緑十字社理事にも就任した。慰安婦問題の真偽に対しては日本の責任を否定する立場であり、2007年7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求めるチャンネル桜主導の抗議書には夫婦そろって賛同している。また、田母神論文問題で更迭された田母神俊雄元航空幕僚長を支持する「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」には、発起人として妻とともに名を連ねている。2009年5月15日には、「小野田寛郎の日本への遺言」と題した講演を2時間に渡って行った。その後も講演活動を続けていたが、2014年1月16日、肺炎のため東京都中央区の病院で死去した。91歳没。
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