1910年代後半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:23 UTC 版)
1914年に第一次世界大戦が勃発すると電力需要はさらに増加し、特に大戦中の後期から戦後にかけては著しい増加を示した。この時期には中京地方の主要産業である紡績業において、石炭価格の高騰や大戦景気に押された事業拡大に伴い動力を蒸気機関から電動機に転換する動きが広がった。1915年から1920年(大正9年)にかけて、名古屋電灯では豊田自働紡織・近藤紡績・菊井紡績・東京モスリン名古屋工場・大日本紡績一宮工場などと大口供給契約を新たに締結。すでに半田工場に供給済みである東洋紡績についても、三重県の富田工場・四日市工場が供給先に加えられた。 社長の福澤桃介が創立にかかわった企業が需要家に加わった点も特徴である。1916年(大正5年)8月に発足した電気製鋼所のほか、ソーダ会社の東海曹達(桃介の長男福澤駒吉が経営、1916年12月設立)、セメント製造の名古屋セメント(1918年設立)、人造黒鉛電極製造の東海電極製造(1918年4月設立、現・東海カーボン)がこれにあたる。また名古屋電灯から電力を供給する電気事業者も増加しており、1915年以降は津島の尾州電気、三重県の北勢電気が加わっている。電力供給実績は1917年(大正6年)に2万馬力を越え、1919年(大正8年)11月末時点では3万6403馬力を数える。また同年度より電力料収入が電灯料収入を上回るようになった。 電灯供給も大戦後期から戦後にかけての時期に大きく拡大し、1916年上期に20万灯を突破、1919年には1年で5万灯の増加を示して同年11月末時点での電灯数は33万4076灯に達した。この間料金の値下げも相次いだ。1914年9月に発生した、名古屋電気鉄道に対する電車焼き討ち事件が示すように、電車賃や電気料金は常に値下げの圧力にさらされており、名古屋電灯では1914年2月・1916年2月・1917年2月の3回にわたって電灯料金・電力料金を引き下げた。1917年2月の改訂では、定額灯は8燭灯月額50銭・16燭灯65銭・24燭灯80銭、従量灯は1キロワット時あたり14-6銭(逓減制)、などと電灯料金が定められ、以後東邦電力時代の初期までその料金制度が維持された。 電灯供給では値下げのたびに需要家に対する勧誘活動が繰り返された。中でも1916年2月の料金値下げを機に実施されたより明るい電灯への切り替え(高燭化)の勧誘は大規模なもので、料金改定前の1月中旬より、広告を市内全域に配布する、自社電柱に広告を貼付する、理髪店・銭湯など市内要所に絵入りのビラを掲示する、本社のショーウィンドーに電飾を施す、社員・勧誘員・集金人を総動員し戸別訪問を行う、といった活動を展開、1月の1か月間だけで20万燭の増燭を達成した。翌1917年2月の料金値下げに際しても勧誘活動が行われ、この改定で10燭灯を廃止したもののその需要家がほとんど8燭灯ではなく16燭灯に移行するという成果をあげた。 電熱供給という分野も出現した。名古屋電灯での採用事例として、国内製品の普及で電熱器が廉価となったのをうけて1916年11月新柳町の料理店「八層閣」に取り付けた10台の「電気七輪」がある。電熱で調理された「電気すき焼き」は客に好評であったという。
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