1910年代の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:04 UTC 版)
愛知電気鉄道の開業に続き、知多郡では1913年(大正2年)2月より岡崎電灯が東浦村への供給を開始し、翌1914年(大正3年)1月には半田の知多瓦斯も電気事業を開業した。愛知電気鉄道でも点灯区域の拡大に努め、1912年開業の13町村に加えて1913年には名古屋近郊の愛知郡笠寺村と西浦町以南の知多郡小鈴谷村(5月点灯)・野間村(9月点灯)・内海町(同)で供給を開始。次いで1914年には半島東海岸の大府村と富貴村・河和町(両村とも8月点灯)において供給を始めた。 知多郡の北側にあり名古屋市の東郊にあたる愛知郡東側地域において、名古屋電灯は名古屋市域に接する千種町・東山村・御器所村・呼続町(現在の千種区から南区北部にかけての範囲)のみを供給区域としていた。愛知電気鉄道では知多郡に続き愛知郡内の名古屋電灯未進出地域へと進出、鳴海町・笠寺村へ供給したのに続いて1915年(大正4年)には天白村・豊明村での供給を開始する。さらに1916年(大正5年)12月31日より東郷村でも開業した。 知多半島でも引き続き供給範囲を拡大し、1917年(大正6年)1月1日より内海町山海・豊浜町で、1月21日より最南端の師崎町で供給を開始した。また西三河に属する西加茂郡にも進出し、愛知郡東郷村に隣接する三好村にて同年6月8日に開業。追って1918年(大正7年)7月30日よりその北側の西加茂郡保見村での供給を始めている。以上の事業拡大により愛知電気鉄道の電灯電力供給区域は愛知・知多・西加茂の3郡にまたがる計27町村に拡大する。電源は引き続き名古屋電灯からの受電であり、1919年末時点での受電高は鉄道用電力を含め900キロワットであった。 供給成績を見ると、電灯供給は1910年代を通じて一貫して拡大し続け、1914年下期に需要家5,000戸・灯数1万灯に到達、1917年下期に需要家数が1万戸を越え、半期後には灯数も2万灯を突破した。1919年下期末(11月末)時点での電灯需要家数は1万8051戸、灯数は2万9612灯であり、開業当初の1912年5月末時点に比べて需要家数は13.5倍、電灯数は7.6倍という水準である。ただし供給数としては増加の一途ではあるが、1914年ごろの不況期には廃灯する家庭も出現しており、供給区域拡大や電灯の高燭光化(明るい電球への取り替え)で減収を補う状況にあった。同時期の不況の影響は電力供給でより顕著であり、主力の木綿工業縮小などにより電力需要が減少し、1914年下期から3期連続で供給馬力数が前期を下回っている。それでも1916年上期からは持ち直し、1919年11月末時点では193戸の需要家に対し609馬力(454キロワット)を供給している。
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