18世紀のアカデミー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 07:19 UTC 版)
「女性アーティスト」の記事における「18世紀のアカデミー」の解説
アンゲリカ・カウフマン、「文学と絵画」、1782年、ケンウッド・ハウス アンヌ・ヴァライエ=コステル、「音楽のアトリビュート」、1770年 マリー=ガブリエル・カペ、1783年 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン (1755–1842)、「自画像」、1780年代頃 ロザルバ・カッリエーラ (1675–1757)、「自画像」、1715年 ウルリカ・パッシュ、「自画像」、1770年頃 アンナ・ドロテア・テルブッシュ、「自画像」、1777年 マリア・コズウェイ、「自画像」、1787年 マルグリット・ジェラール、「最初の一歩」、カンバスに油彩、1788年頃 ヨーロッパの多くの国ではアカデミーがスタイルを決定した。アカデミーは芸術家を訓練し、作品を展示し、意図の有無にかかわらず芸術作品の販売を促進することに責任があった。ほとんどのアカデミーは女性に門戸を開かなかった。たとえばフランスでは強力なパリの芸術アカデミーが17世紀からフランス革命の間に450人の会員を擁していたが、このうち女性はたった15名であった。このうちのほとんどは会員の娘か妻であった。18世紀後半には、フランスのアカデミーは女性を一切受け入れないと決めた。 この時期に最も格式の高い絵画は歴史画であり、とくに歴史や神話を題材とした状況の中で多くの人を配置した大規模な絵が重要視された。こうした絵を準備するには、芸術家は古代の彫刻を学んで習作を作ったり、前時代同様男性ヌードを描く必要があった。女性はアカデミーの訓練に全く入れないか、入れたとしてもきわめて極られた訓練しか受けられなかった。このため、この時期に描かれた女性による大規模な歴史画は存在していない。 肖像画など他のジャンルで名を上げた女性はいた。エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランは肖像画の経験を生かして寓意的な絵画「繁栄を連れ戻す平和」を描き、これを歴史画と分類してアカデミーへの入会根拠に使用した。宮廷では気に入られて著名人となり、40枚以上の自画像を描いて売っている。 イングランドではアンゲリカ・カウフマンとメアリー・モーザーが1768年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの創立メンバーとなった。カウフマンはマリア・コズウェイがアカデミーに入れるよう手助けした。コズウェイは神話画の画家として成功したが、ふたりともアカデミーではいくぶん曖昧な立場に追いやられており、それはヨハン・ゾファニーの集団肖像画で現在ロイヤル・コレクションにある「ロイヤル・アカデミーの会員たち」に見て取ることができる。この絵ではアカデミーの男性のみが大きなスタジオにヌードの男性モデルと集まっている。男性モデルがいるため社会通念上差し障りがあるということで、ふたりの女性会員はその場にいる人間としては描かれて折らず、かわりに壁の肖像画として描かれている。アカデミーの芸術が訓練中のヌードの習作づくりを強調したことは、実際にクラスに出席できないという点でも、家族や社会が画家になろうとするミドルクラスの女性に対してとる態度が硬化するという点でも、20世紀まで芸術を学ぶ女性にとって相当な障壁となった。カウフマン、モーザー、コズウェイの3人の後は1936年のローラ・ナイトまでアカデミーの正規会員がおらず、女性は1861年までアカデミーの学校に入ることも許されなかった。 18世紀の後半までに、女性芸術家にとって大きな前進があった。パリにおいて、アカデミーが設立した作品展示会であるサロンが1791年にアカデミーに所属しない画家にも開かれたのである。これにより女性も重要な年次展示会に作品を出展できるようになった。さらに女性はジャック=ルイ・ダヴィッドやジャン=バティスト・グルーズのような著名画家の弟子として頻繁に受け入れられるようになった。
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