18世紀から第二次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 05:07 UTC 版)
「スロベニア人」の記事における「18世紀から第二次世界大戦まで」の解説
神聖ローマ帝国崩壊後のスロベニア人の居住域を管掌したのは、オーストリア帝国、フランス帝国のイリュリア州、オーストリア=ハンガリー帝国であった。 20世紀になる頃には、多くのスロベニア人が経済的理由などからアメリカ合衆国に移住した。ベスレヘムに移住した者たちはウィンディッシュ(Windish)と呼ばれるようになった。最大のスロベニア人移住者集団はオハイオ州クリーブランドやその周辺に定着した。2番目に大きい集団はシカゴ、特にロウアー・ウェスト・サイド(Lower West Side, Chicago)地域に移り住んだ。在米スロベニア人カトリック連合(英語:The American Slovenian Catholic Union、スロベニア語:Ameriško slovenska katoliška enota)は、スロベニア系アメリカ人の権利を擁護するためにクリーブランドとジョリエット(Joliet, Illinois)に設立された。その後、クラニスカ・スロベニア人カトリック連合(KSKJ)は全米各地に拠点を設け、スロベニア系アメリカ人のために生命保険やその他のサービスを提供している。自由思想家たちはシカゴの18thストリートとラシーヌ・アベニュー(Racine Ave.)の間に集まってスロベニア人民族互助会(Slovene National Benefit Society)を結成した。このほかのスロベニア人は、炭鉱や林業に従事するためにペンシルベニア州南部、オハイオ州南部、ウェストバージニア州に移った。一部のスロベニア人は鉄鉱山で働くためにピッツバーグやヤングスタウンに移住した。 第一次世界大戦(1914年 - 1918年)以降、スロベニア人の住む地域の大部分がスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国に参加し、ともにセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国を結成し、王国は後にユーゴスラビア王国と改称された。1929年の地方行政区画の刷新に伴って新設されたドラヴァ州(Drava Banovina)において、スロベニア人は多数派を形成した。 1920年、混在地域であるケルンテン(コロシュカ)地方は、住民投票によってオーストリア領に留まることを決定した。また、スロベニア人居住地の西部は戦間期にはイタリア王国領となっていた。 スロベニア人の義勇兵はスペイン内戦や第二次エチオピア戦争にも参加している。
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