18世紀と19世紀の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 07:09 UTC 版)
「パリ・オペラ座バレエ」の記事における「18世紀と19世紀の歴史」の解説
18世紀には、パリ・オペラ座バレエ学校の前身となる付属学校が1713年に開校したほか、ラモーのオペラや、後にはグルックのオペラが、ダンサーの水準を向上させた。 1776年から1781年には、ジャン=ジョルジュ・ノヴェールがメートル・ド・バレエ(バレエマスター)として、とりわけ大きな影響力を持った。1778年、ノヴェールは、モーツァルトの音楽を用いた『レ・プティ・リアン(英語版)』を創作した。 1781年からはマクシミリアン・ガルデルがメートル・ド・バレエを務め、彼が1787年に死去した後は、弟のピエール・ガルデル(英語版)が後を継いだ。ピエール・ガルデルは、『ラ・マルセイエーズ』『自由への捧げもの』などのバレエを創作してフランス革命を生き延び、1820年にメートル・ド・バレエを引退したが、その後も1829年まで活動を続けた。 1820年、ピエール・ガルデルの後任としてジャン=ルイ・オーメール(英語版)がメートル・ド・バレエとなったが、オーメールはマイムを使いすぎ、筋書きや人物像を深めるような振付ができていないとして、強い批判を浴びた。 1821年、オペラ座は新たな拠点であるサル・ル・ペレティエ(英語版)へ移り、ここでロマンティック・バレエが生まれた。 1875年、オペラ座はガルニエ宮に移転し、現在までここを拠点としている。
※この「18世紀と19世紀の歴史」の解説は、「パリ・オペラ座バレエ」の解説の一部です。
「18世紀と19世紀の歴史」を含む「パリ・オペラ座バレエ」の記事については、「パリ・オペラ座バレエ」の概要を参照ください。
- 18世紀と19世紀の歴史のページへのリンク