ジャン=バティスト・グルーズとは? わかりやすく解説

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グルーズ【Jean-Baptiste Greuze】

読み方:ぐるーず

[1725〜1805]フランス画家教訓性を帯びた市民風俗画愛らしい少女像を描いた

グルーズの画像 グルーズの画像 グルーズの画像
小鳥の死を嘆く少女(1765)/スコットランド国立美術館撮影・INHA https://goo.gl/txRQxu

ジャン=バティスト・グルーズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/13 14:00 UTC 版)

ジャン=バティスト・グルーズ
Jean-Baptiste Greuze
『自画像』(1769年頃) ルーヴル美術館
生誕 (1725-08-21) 1725年8月21日
フランス王国トゥールニュ
死没 1805年3月4日(1805-03-04)(79歳没)
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ジャン=バティスト・グルーズ (Jean-Baptiste Greuze, 1725年8月21日 - 1805年3月4日)は、フランスの画家。宮廷風俗を描いた同時代の他の画家と違い,市民生活に題材を求めた風俗画を多く描いた。当時は絶大な人気を誇っていたが、その後18世紀の忘れられた画家として低い評価を受けた。

生涯

リヨン郊外のトゥールニュで生まれ、グランドンという名のリヨンの肖像画家のもとで学んだ後、1750年頃にパリに出た。5年後の1755年に初めてサロンに出品した『家族に聖書を読んで聞かせる祖父』が市民の人気を集め、正規のコースをたどることなしに王立絵画彫刻アカデミーへの入会資格を認められた。歴史画家としての名声を望み、その素質を備えていたにもかかわらず、風俗画家としての知名度が高かったため、「風俗画家」として会員になった。アカデミーではシャルル=ジョゼフ・ナトワールに師事する。一時イタリアに滞在したほかはほとんどパリで制作した。1761年サロンに出品した『村の花嫁』や『こわれた瓶』はその教訓的な内容によってディドロらの称賛を受け、多大の人気を得た。ディドロたちによって「道徳的絵画」として称揚されたこの種の作品は、ロココ風のセンティメンタルな甘さと、オランダ絵画に範をとった精密な描写と逸話性、そしてディドロのいう「繊細で感受性にみちた魂」で主題を扱う態度の結合が生み出したものといえるが、今日から見れば、それはロココ的感傷主義の市民化、家庭化であったともいえる。大革命後、新古典主義の風潮によって彼の業績はなかば埋没した。しかし大衆的な名声は最晩年まで持続した。

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