15-21世紀
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1400年、北ウェールズにおいてオワイン・グリンドゥールが率いるイングランド支配への反乱が勃発した。ビューマリス城は包囲され、1403年に反乱軍に攻略されるも、1405年には国王軍が奪還している。城は補修されずに荒廃するままとなり、1534年にローランド・ド・ベルヴィル(英語版)がビューマリス城の城代 (constable) になった時には、ほとんどの部屋は水濡れしていた。1539年の報告によれば、そこはわずか8ないし10挺の小銃と40挺の弓 (bows) だけの備蓄により防御されていたと訴えており、城の新しい城代のリチャード・バークリー (Richard Bulkeley) は、予想されるスコットランドの攻撃に対する要塞の防御としては全く不十分であると結論づけている。状態は悪化し、1609年には、城は「完全崩壊」に分類された。 イングランド内戦は、1642年にチャールズ1世の王党派(騎士党)支持者と議会(円頂党)の支持者の間で勃発した。ビューマリス城は、アイルランドにある国王の拠点とイングランドの作戦本部間の経路の一部を支配し、戦いにおいて戦略的な位置にあった。数世紀にわたりその一家が城の管理に関わっているトマス・バークリー(英語版)は、国王のためにビューマリスを支え、その防御の強化におよそ3000ポンドを費やしたともいわれる。しかし、1646年には議会派が国王軍を破り、6月14日に議会軍のマイトン少将に対して降伏し、城は王党派リチャード・バークリー大佐により明け渡された。アングルシーは、1648年に再び議会に対して反乱を起こし、一時ビューマリスは王党派勢力が再び占拠したが、その年の10月には2度目の降伏に至ることとなった。 戦いの後、多くの城が廃城 (Slighting) され、軍事的使用を経て放置されるままに損傷したが、議会はスコットランドからの王党派の侵入の脅威などを懸念し、ビューマリス城は容赦された。ジョン・ジョーンズ (John Jones) 大佐が城の総督となり、駐屯地が城内に年間費1703ポンドで設定された。その後チャールズ2世が1660年に王位に返り咲き、バークリー家を城の城代に復帰させた際、ビューマリスはその高価な鉛や残った資材を屋根などから剥ぎ取られたものと見られる。 第7代バークリー子爵トマス・バークリーは、1807年に王家から城を735ポンドで買い取り、地元の邸宅であるバロン・ヒル(英語版)を囲む公園に組み入れた。それまでに北ウェールズの城は、ツタの絡まる遺構をロマンティックに捉えた画家や旅行者が訪れる興味深い場所となった。その近辺にあるほかの城跡ほど有名ではないが、この一連の城の1つとして構築されたビューマリスには、1832年に将来の女王ヴィクトリアが13歳の時にアイステズヴォッド(英語版)祭に訪れており、1835年にはJ・M・W・ターナーにより描かれた。この城の石材のいくらかは、1829年に近くのビューマリス刑務所(英語版)の建設のために再利用されたと考えられる。 1925年、リチャード・ウィリアムズ=バークリー (Richard Williams-Bulkeley) は自由保有権(英語版)を保持し、城を作業委員会 (Commissioners of Works) の管理のもとに置き、その後、大規模な修復計画を実施して、草木を取り除き、堀を掘り起こし、石造物を修理した。1950年に、城は当局により「ウェールズの優れたエドワード時代の中世の城の1つ」として、指定建造物1級 (Grade I) に指定された。最上等級の1級は「特に優れた、通常国家的に、重要な」建物として保護されている。 ビューマリスは1986年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産に登録された「グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁」の一部に認定され、「ヨーロッパにおける13世紀後半から14世紀初頭の軍事建築の最高の例」の1つとされている。21世紀現在、ビューマリス城は、ウェールズ議会政府(英語版)の歴史的環境事業の機関であるカドゥ(英語版) (Cadw) により観光名所のモニュメントとして管理されており、2007年会計年度(2007-2008年)にはビューマリスに7万5000人が訪れた。城は継続的な保全・修理が必要であり、その2002年会計年度(2002-2003年)の費用として、5万8000ポンド余りを要している。
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