黎明期のピンク映画とテレビ時代劇の往復
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1963年(昭和38年)、宣弘社との契約期間満了に伴い、かつて東宝のプロデューサーであった本木荘二郎に奨められ、成人映画『0の情痴』を監督する。翌1964年(昭和39年)には歌舞伎座テレビ室と契約を結び、テレビ映画の世界に戻りつつ、本木荘二郎のシネユニモンドで、『性の爆発』(1965年)、『情痴の果て』(同)、『女・三百六十五夜』(1966年)を「唐沢二郎」の名で発表する。1968年(昭和43年)4月には、大井由次(小諸次郎)の青年群像で『女の秘絵図』を早坂 絋清の名で発表、同年7月には同じく青年群像で『0の陰獣 日本性犯罪史』を早坂 紘の名で発表、以降これが唐の第3の名となる。この時期、歌舞伎座テレビ室では助監督を務めており、1969年(昭和44年)4月28日に放映開始された連続テレビ映画『木石』(原作舟橋聖一)で監督に昇進した。 1970年(昭和45年)7月4日に放映開始された連続テレビ映画『日本怪談劇場』では、全13話中12話で「監督補」を務め、第8話『怪談・首斬り浅右衛門』(同年8月22日放映)では監督を務めた。1970年代の前半においては、『蛇姫様』(原作川口松太郎、1972年放映)、『怪談』(1972年放映)、『ご存知時代劇』(1973年放映)といった連続テレビ映画の監督を務め、1973年(昭和48年)10月2日に放映を開始した『水滸伝』(製作国際放映)では「時代考証」とクレジットされる等、テレビ映画を手がけるかたわら、「唐沢二郎」「早坂紘」を使い分けて多くの成人映画を発表した。この時代に手がけた成人映画作品は、「コメディ・ピンク」と呼ぶべき「明るく軽妙なタッチ」の作品であったという。『水滸伝』で初めて手がけた「時代考証」については、考証家の林美一に高く評価された。 1970年代の後半においては、1978年(昭和53年)10月1日に放映を開始した『西遊記』(製作国際放映)の「時代考証」を手がけた以外は、精力的に成人映画の演出に取り組んだ。同年2月25日に公開された『刺青』は、「唐順棋」名義でクレジットされた最初で最後の監督作であり、同作は凡天太郎と共同で監督したほか、凡天とともに出演もしている。1979年(昭和54年)6月5日に公開された『トルコ拷問 激痛』に始まる「トルコ拷問シリーズ」は、シリーズ6作中4作を「早坂紘」名義で手がけている。映画監督の旦雄二が「早坂紘」に師事したのはこの時代(1975年 - 1978年)である。 1980年(昭和55年)4月9日に放映を開始した『斬り捨て御免!』では、全3シーズンを通じて合計16話を監督した。1982年(昭和57年)6月に公開された『衝撃マントル 淫室密写』が記録に残る最後の劇場用映画である(「早坂紘」名義)。テレビ映画も、1983年(昭和58年)3月16日に放映された『眠狂四郎円月殺法』第17話『美女姫身代り残忍剣-白須賀の巻-』を監督したのが最後である。満54歳の時点で作品的には沈黙した。 東京国立近代美術館フィルムセンターは、唐の監督作のうち、『男と女 ポルノ四十八態』、『痴漢クラブ 熱い肌の誘惑』、『ベッドマナー 男いびり』、『発情 おんな寝物語』の4作の上映用ポジプリントを所蔵している。
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