黎明期のピンク映画へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 13:45 UTC 版)
1962年11月、国新映画なる映画会社が製作した成人映画『肉体自由貿易』の高木丈夫として本木は監督デビューした。 以降、高木丈夫名ではシネユニモンド、1968年(昭和43年)からは加えて「品川照二」の変名も駆使して、製作者・監督・脚本家として、200本に近いピンク映画を量産した。1971年(昭和46年)からは、ジョイパックフィルム(現在のヒューマックスシネマ)の成人映画レーベル「ミリオンフィルム」に活動の場を移し、翌1972年(昭和47年)からは「岸本恵一」を名乗る。1975年(昭和50年)からは、大東映画や大蔵映画でも監督作を生み、その際の変名を「藤本潤二」あるいは「藤本潤三」とした。ピンク映画の監督名としては「本木荘二郎」の名前は決して使わなかった。のち女流ピンク映画として名をはせる浜野佐知は十台終わりの1960年代後半に本木に助監督として仕えていた。「すっごくスケベな人で、セクハラありありの現場」「もうおじいさんで、女の子のそばにいられるだけで幸せ、という人で、別に悪さするわけじゃないんです」「移動するときに、手をつないでくるのには往生しましたが」とし、性描写の具体的な演出指示が勉強になったと感謝、「本木さんのHの文法と、梅沢薫さん(浜野が本木の次に師事した監督)の映画の文法を合体して、今の私がある」と回想している。ただ、当時の本木は50を過ぎたばかりだったので、ピンク映画業界では高齢だったとはいえ、かなり老け込んでいた様子もうかがえる。 この間の1970年と1971年には、森岩雄の指示により、一般映画『柔の星』『おくさまは18歳 新婚教室』を製作して東宝が配給したものの、作品的にも興行的にも成功せずにこの2作品のみで終わっている。
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