雷における戊辰戦争(庄内戦争)
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「雷 (村上市)」の記事における「雷における戊辰戦争(庄内戦争)」の解説
山北で繰り広げられた戊辰戦争はほとんど庄内軍と政府軍の争いであったため「庄内戦争」と呼ばれていて、庄内戦争において雷村は関川口に通ずることから戦乱の舞台となった。1868年(慶応4年)7月下旬から8月上旬にかけて新潟、村上が陥落し庄内軍の戦線が国境(現在の新潟県と山形県の県境)までせまると鼠ヶ関口、小名部口に加えて関川口にも守備隊を設けることになり、8月半ばから関川村と雷村の山中に胸壁を築いた。8月27日に斥候を出すと、政府軍兵士が山熊田の大日峠に胸壁を築いていることが分かった。そのため、関川口守備隊は翌28日午前2時頃に雷村を後にして川、山を越え三方に分かれ襲撃した。この時の様子が、庄内軍の小隊長和田東蔵の実践記録「戊辰庄内戦争録」に残されており、「焚き火をしていた数名の番兵が襲撃に慌てて武器をうち捨てて胸壁内の小屋に逃げ込んだ」と記されている。この襲撃は功を奏し、政府軍高鍋藩(現在の宮崎県)の司令官のほか6つの首を取り、多くの戦利品を得た庄内軍の圧勝であった。しかし、その後政府軍の反撃により雷村は激しい銃撃戦の舞台となった。関川口の攻防を含む3つの羽越国境(他中浜、小俣)を中心に、激しい戦いが8月下旬から9月初めにかけて繰り広げられたが、庄内軍は孤立していた。米沢・仙台藩の戦況も不利であったため9月半ばに両藩続いて降伏。そして、庄内藩も9月17日に降伏し庄内戦争は幕を閉じた。 明治政府が地方制度を整え新しい政治を目指し、そのための政策の1つとして1873年(明治6年)に地租改正の法令を発布。地租改正は時間のかかる大事業であったため、山北でも3、4年かけて1877年(明治10年)にやっと終えたほどで、耕地の少ない雷村でも村の面立ちが延べ60日、他の人足も作業に延べ166日駆り出される状態であった。また、指示をする役人が出張で長期滞在するため村で食事や宿を用意する必要があり、雷村では役人のまかないが350にまでのぼった。尚、事務用品や測量用具、土産などの経費も全て村人に割り当てられ徴収された。雷村には「地券入費附立帳」「地券人足控帳」「地券ニ付新潟入費割付帳」などの地租改正の史料が残されている。地租改正で村には多大な負担を強いられたあげく、農民にかけられた地租はこれまでより高いものとなった。地租は宅地や田畑に限らずありとあらゆる土地にかけられ、合計125円35銭となった。これを当時の米に換算すると、約42.6石で江戸時代よりも重い負担であった。新潟県全体では以前の税に比べ28%増加していた。これに農民が激しく抵抗し各地で地租改正反対一揆が起きたため、1877年(明治10年)に政府は税率を下げることとなった。 1924年(大正13年)に雷に電気が引かれる。同年秋の夕方、伊藤六助家の前の電柱で初めて電燈が点くということで、村人が集まった。 雷では日露戦争の頃から、政府指導のもと兵役や出征兵士の留守家族に労力奉仕をしていた。当時の区長引き継ぎ書類によると、1902年(明治35年)から稲作の時期は村の人々が現役軍人の留守家族の手伝いをしていたと記録されている。更に、1939年(昭和14年)の史料「勤労奉仕一覧表」にも同様の記録が残されており、毎月4日を軍人家族への勤労奉仕日と定めていて、5月から10月の農作業を手伝っていたとある。尚、これは1945年(昭和20年)の終戦まで続けられていた。
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