隠し戦犯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 05:34 UTC 版)
石原はこの第3分所に約2年半収容された。アルマ・アタは内陸部であるため、冬は外気温が氷点下30度にもなる。冬には、ブランと呼ばれる雪嵐のある過酷な環境の土地である。 捕虜や囚人は作業班に分かれて強制労働させられ、各班には作業量のノルマが課せられた。ノルマに達しないと食事の量が減らされ、ノルマ以上を達成すると食事の量が増える仕組みになっていたが、増える食事の量は増えた作業量に使ったエネルギー量に比べてわずかしかなく、かえって体の衰弱を招き死を早めることになった。それでも、食料の増配に目がくらんでノルマ以上に労働する囚人があとを絶たなかったことは例えば、ソルジェニツィンの『収容所群島』の中にも書かれている。石原のいくつかのエッセイの中でも同様のことが書かれている。 国際情勢が冷戦に移行し始めると、旧ソ連当局は日本人抑留者の中から「戦犯」を選別して、一般抑留者とは別に収容するようになった。これは、米ソ協定により抑留者の日本帰国が進む中で、政治交渉の道具に使うために日本人を「人質」として確保することが目的だったと考えられている。このように、戦犯の罪名で囚人にされ、ソ連国内で受刑させられた抑留者を「隠し戦犯」と呼んでいた。 1948年(昭和23年)8月、石原はカザフスタン南部のアルマ・アタから北部のカラガンダへ移送された (第99収容所第13分所へ移送)。このカラガンダのラーゲリには関東軍特務機関や満鉄の関係者が集められて収容されており、第11分所では菅季治 (後の「徳田要請事件」に巻き込まれて自殺した人物) が通訳として働かされていた。石原が収容された第13分所にはソ連国防軍中央アジア軍管区軍法会議の出張法廷が併設されており、昼間は炭鉱で肉体労働をさせられ、深夜から早朝にかけて取り調べの呼び出しがかかった。石原はこのカラガンダの炭鉱労働で肋骨を2本骨折し、栄養失調のためその後も長く剥離したままになった。 翌1949年(昭和24年)に石原も呼び出しを受け、同年2月旧ソ連刑法第58条第6項違反 (スパイ罪) で起訴され、有罪を宣告された。 呼び出し前に既に調書が作成済みであり、毎夜呼び出しを受けては調書を認めるよう強要されるだけで、実質的な取り調べは何も行われなかった。また、裁判は全く形式的なもので、証拠調べ、弁護人、本人弁論もない極めていい加減なものだった。 調書をとられたときにはスパイ罪で逮捕されたにも関わらず、起訴状には「戦争犯罪人」と書かれていたことからもわかるようにずさんさは明瞭である。このような規定があるのはニュルンベルク裁判や東京裁判だけであり、旧ソ連刑法にはないにも関わらずこの起訴状が有効とされるほどいい加減な裁判だった。石原は他の日本人と共に裁判を受けた際、判決に先立って、ソ連の領土以外で、ソ連の参戦前に行われた行為を、ソ連の国内法で裁くことに抗議したが、まったく意に介されなかった。 起訴後は独房に2か月間収監され、1949年(昭和24年)4月、石原に有罪、自由剥奪・重労働25年の判決が下った。旧ソ連では1947年(昭和22年)に死刑が廃止されており、これは当時の旧ソ連国内の懲役刑としては最高のものである。エッセイ『望郷と海』によると、収監中石原は望郷の念を支えにして生きた。 判決後、石原はカラガンダ第2刑務所に移送された。8月始めにはさらに別の収容所へ移送され、そこで鹿野武一に再会したことは、以後の石原の人生で大きな意味を持つことになった。この時の鹿野との邂逅については、エッセイ「ペシミストの勇気について」の中に書かれている。
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