関東使対面問題
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そんな不安定な将軍と管領の関係が最も顕著に表れたのが永享3年(1431年)3月からの将軍の関東使対面問題である。 室町将軍の代理として代々関東を治める鎌倉公方は、歴代に亘って京都の将軍に取って代わらんとする野望を持つ者が多かったが、当時の4代鎌倉公方足利持氏は歴代で最も露骨に将軍への野心を表した人物であった。特に義持没後に己を差し置き、籤引きによって新将軍を選定した事に対しては激しい不満を抱いていた。このため義教の将軍宣下の際も、その先例を無視して賀使を容易に送らず、また永享年号の改元に従わずに正長年号を使い続け、さらには京都扶持衆と呼ばれる関東における親幕府派への軍事的圧力や、京都の幕府の権限である鎌倉五山住持の任免を勝手に行うなど、徒に京都との対立姿勢を強めた。この幕府を無視した鎌倉府の姿勢に対して将軍義教は激しく憤り、京都と鎌倉の間にはかつて無い緊張感が高まる事となった。 この京都と鎌倉の対立に目をつけたのが持氏の叔父にあたる足利満直であった。満直は陸奥国篠川に屋形を構えて篠川御所と尊称され、鎌倉府における奥州統治の出先機関を担っていたが、この満直が持氏に代わって鎌倉公方に成らんとの野心を見せ始め、頻りに京都へ接近をはじめる事となる。この義教と満直の接近を憂慮したのが鎌倉では関東管領上杉憲実であり、京都では管領義淳であった。憲実は鎌倉は幕府と対決するつもりは無い旨を伝えるために、和睦の使節として鎌倉府の政所執事である二階堂盛秀を派遣する事を管領義淳を通じて幕府に知らせた。義淳はさらにこれを満済を通じて義教に伝えたが、逆に義教は反鎌倉の「同盟者」である満直へ関東使節と会うべきかどうかを尋ねた。 これに対して満直は将軍と関東使節との対面に反対の立場をとり、もし対面するにしても鎌倉に対して那須氏・佐竹氏・白河結城氏など京都扶持衆に対して軍事的行動を起こさぬように誓約した罰状(誓紙)を書かせるまでは対面しないで欲しいとの希望を伝え、義教もこれに同意して鎌倉が罰状を提出するまで対面しないとの返事を満直に送っている。このような情勢の中で、永享3年3月14日に関東使節二階堂盛秀は上洛を果たした。 3月20日、義教は管領の義淳に対し、これまで秘密裏に交渉してきた満直との「鎌倉の罰状提出の無くば使節と対面せず」の約定を満済を通じて通達するが、義淳は「天下泰平の為の使節にそのような誓書は要求出来ません。そもそも鎌倉と篠川の言い分は食い違いが多すぎるので、無条件で関東使節と対面すべきです」と主張し義教と義淳の意見は真っ向から対立した。とりあえず義淳は諸大名の意見を徴し、22日に再度満済と面会して諸大名の意見を伝えた。それによると概ね「管領が使節の遅延を責めたうえで、面会するべき」といった意見で、それ以外では山名時熙の「使節の申し出を聞いた上で幕府の態度を決めるべき」、畠山満則の「鎌倉府は義満公以来特別の待遇であるから面会するべき」といった具合であった。義淳から諸大名の意見を聞いた満済は「一番重要な罰状提出の有無の意見が無いではないですか。もう一度諸大名の意見を集めてください」と促し、義淳は再度諸大名の意見を集め始めた。この時前管領の畠山満家は「既に将軍が篠川と約束してしまった以上は鎌倉の罰状提出も仕方ないのではないか。その上で使節と対面するのが良いのでは」との意見を出すと、諸大名も満家のこの意見に賛成した。これこそ義教の望んだ答えであった為、満済は早速義淳に「満家殿の意見を諸大名の意見として将軍に取次いでください」と伝えたところ、義淳は「たとえ諸大名が罰状提出に賛成であっても、管領たる私は罰状提出に反対です」と答えて義教に上申する事を拒否した。満済は3月24日、3月28日、4月2日にも義淳に再考を望んだが、依然として義淳は頑なに拒否し続けた。 やむを得ず満済は4月4日になって義淳の反対意見と畠山満家以下他の諸大名の賛成意見が書かれた意見書を義教に上申し(本来は管領が諸大名の意見を取りまとめるため、別個の意見書は上申されない)、これを受けた義教は諸大名の意見を採用して、義淳に上洛中の二階堂盛秀に鎌倉の罰状提出を伝えるように指示した。ところが義淳はあくまでも罰状提出には反対の立場をとってこの命令を無視した。義教は4月10日になっても義淳が命令を実行していないことを知ると「将軍の命令を無視するとは以ての外である。管領の態度は尋常では無い」と激怒している(『満済准后日記』)。 その後も義教・満済と義淳の罰状提出を巡る攻防は数ヶ月にわたって繰り広げられたが、俄に九州において騒乱が起こり、6月28日には大友持直・少弐満貞の連合軍が筑前国深江にて大内盛見を敗死させる事態となった。このままでは九州の情勢が不安定な中で、鎌倉と対立する事になり、また一方で幕府内でも将軍と管領との対立が続く状況を憂慮した宿老の畠山満家や山名時熙は、7月10日に義教に対し義淳の要望どおり無条件で関東使節に対面する事を願った。ここに至って義教もついに折れ、義淳の望み通り無条件で関東使節と対面する事を決意し、7月19日に関東使節二階堂盛秀は義淳に伴われて義教と対面し、馬2頭・金太刀・鎧1領を献上した。次いで8月7日には盛秀を御所へ召して盃と刀を与え、鎌倉公方の持氏にも太刀1腰・鎧1領・盆・香合・食籠等を贈った。これにより形式上は京都と鎌倉の和睦が成る事となった。 しかし義教は義淳の意見に屈した事が余程痛恨事であったらしく、関東使節と対面した後に篠川満直に対して「管領をはじめ諸大名が頻りに鎌倉の使節と会うように申すので、力及ばず使節と対面してしまった」と弁明の書状を送っている(『満済准后日記』)。また同時に義淳に対する不満も増大させていく事になる。事実、関東使対面問題では義教に対して粘り勝ちを収めた義淳ではあったが、一連の問題で義教と徹底的に対立してしまった結果、徐々に幕政より締め出されていく事となる。
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