関東使対面問題とは? わかりやすく解説

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関東使対面問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:30 UTC 版)

斯波義淳」の記事における「関東使対面問題」の解説

そんな不安定な将軍管領の関係が最も顕著に表れたのが永享3年1431年3月からの将軍の関東使対面問題である。 室町将軍代理として代々関東治め鎌倉公方は、歴代亘って京都将軍に取ってわらんとする野望を持つ者が多かったが、当時4代鎌倉公方足利持氏歴代で最も露骨に将軍への野心表した人物であった。特に義持没後に己を差し置き、籤引きによって新将軍選定したに対して激しい不満を抱いていた。このため義教将軍宣下の際も、その先例を無視して賀使を容易に送らず、また永享年号改元従わず正長年号使い続けさらには京都扶持衆呼ばれる関東における親幕府派への軍事的圧力や、京都幕府権限である鎌倉五山住持任免勝手に行うなど、徒に京都との対立姿勢強めた。この幕府無視した鎌倉府姿勢に対して将軍義教激しく憤り京都鎌倉の間にはかつて無い緊張感が高まる事となった。 この京都鎌倉対立に目をつけたのが持氏の叔父にあたる足利満直であった満直陸奥国篠川屋形構えて篠川御所尊称され、鎌倉府における奥州統治出先機関担っていたが、この満直が持氏に代わって鎌倉公方に成らんとの野心見せ始め頻りに京都接近をはじめる事となる。この義教満直接近憂慮したのが鎌倉では関東管領上杉憲実であり、京都では管領義淳であった。憲実は鎌倉幕府対決するつもりは無い旨を伝えるために、和睦使節として鎌倉府政所執事である二階堂盛秀を派遣する事を管領義淳を通じて幕府知らせた。義淳はさらにこれを満済通じて義教伝えたが、逆に義教は反鎌倉の「同盟者」である満直関東使節と会うべきかどうか尋ねた。 これに対して満直将軍関東使節との対面反対の立場をとり、もし対面するにしても鎌倉に対して那須氏佐竹氏白河結城氏など京都扶持衆に対して軍事的行動起こさぬように誓約した罰状(誓紙)を書かせるまでは対面しない欲しいとの希望伝え義教もこれに同意して鎌倉が罰状を提出するまで対面しないとの返事満直送っている。このような情勢の中で、永享3年3月14日関東使節二階堂盛秀は上洛果たした3月20日義教管領の義淳に対しこれまで秘密裏交渉してきた満直との「鎌倉の罰状提出無く使節対面せず」の約定満済通じて通達するが、義淳は「天下泰平為の使節そのような誓書要求出来ません。そもそも鎌倉篠川言い分食い違いが多すぎるので、無条件関東使節対面すべきです」と主張し義教と義淳の意見真っ向から対立したとりあえず義淳は諸大名意見徴し22日再度満済面会して諸大名意見伝えた。それによると概ね管領使節遅延責めたうえで、面会するべき」といった意見で、それ以外では山名時熙の「使節申し出聞いた上で幕府態度決めるべき」、畠山満則の「鎌倉府義満以来別の待遇であるから面会するべき」といった具合であった。義淳から諸大名意見聞いた満済は「一番重要な罰状提出有無意見が無いではないですか。もう一度諸大名意見集めてください」と促し、義淳は再度諸大名意見集め始めた。この時前管領畠山満家は「既に将軍篠川約束してしまった以上は鎌倉の罰状提出仕方ないではないかその上で使節対面するのが良いのでは」との意見を出すと、諸大名も満家のこの意見賛成した。これこそ義教望んだ答えであった為、満済は早速義淳に「満家殿の意見諸大名意見として将軍取次いでください」と伝えたところ、義淳は「たとえ諸大名が罰状提出賛成であっても管領たる私は罰状提出反対です」と答えて義教上申する事を拒否した満済3月24日3月28日4月2日にも義淳に再考望んだが、依然として義淳は頑なに拒否し続けたやむを得ず満済4月4日になって義淳の反対意見畠山満家以下他の諸大名賛成意見書かれ意見書義教上申し(本来は管領諸大名意見取りまとめるため、別個の意見書上申されない)、これを受けた義教諸大名意見採用して、義淳に上洛中の二階堂盛秀に鎌倉の罰状提出伝えるように指示した。ところが義淳はあくまでも罰状提出には反対の立場をとってこの命令無視した義教4月10日になっても義淳が命令実行していないことを知ると「将軍命令無視するとは以ての外である。管領態度尋常では無い」と激怒している(『満済准后日記』)。 その後義教満済と義淳の罰状提出を巡る攻防数ヶ月わたって繰り広げられたが、俄に九州において騒乱起こり6月28日には大友持直少弐満貞連合軍筑前国深江にて大内盛見敗死させる事態となったこのままでは九州の情勢不安定な中で、鎌倉対立する事になり、また一方で幕府内でも将軍管領との対立が続く状況憂慮し宿老畠山満家山名時熙は、7月10日義教対し義淳の要望どおり無条件関東使節対面する事を願った。ここに至って義教もついに折れ、義淳の望み通り無条件関東使節対面する事を決意し7月19日関東使節二階堂盛秀は義淳に伴われ義教対面し、馬2頭・金太刀・鎧1領を献上した次いで8月7日には盛秀を御所召して盃と刀を与え鎌倉公方の持氏にも太刀1腰・鎧1領・盆・香合食籠等を贈った。これにより形式上京都鎌倉和睦が成る事となった。 しかし義教は義淳の意見屈した事が余程痛恨事であったらしく、関東使節対面した後に篠川満直に対して管領をはじめ諸大名頻りに鎌倉使節と会うように申すので、力及ばず使節対面してしまった」と弁明書状送っている(『満済准后日記』)。また同時に義淳に対する不満も増大させていく事になる。事実、関東使対面問題では義教に対して粘り勝ち収めた義淳ではあったが、一連の問題義教徹底的に対立してしまった結果徐々に幕政より締め出されていく事となる。

※この「関東使対面問題」の解説は、「斯波義淳」の解説の一部です。
「関東使対面問題」を含む「斯波義淳」の記事については、「斯波義淳」の概要を参照ください。

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