鑑定待ちの間の審理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:35 UTC 版)
DNA鑑定が委嘱されその結果を待つ間、弁護側は「自白」の任意性・信用性を焦点に再度被告人質問を行った。ここで弁護側は、一審での輿掛と弁護人の信頼関係についてと、「自白」の変遷についてを明らかにしようとした。一審判決が輿掛の「自白」の信用性を認める最大の拠り所としたのは、通常虚偽や強制された自白の撤回は公判の早い段階でなされるものであるのに、輿掛は一審第12回公判まで不利益供述を維持した点であった。実際には一審第2回公判以降は輿掛に発言の機会はなく、次に発言した一審第12回公判で「自白」は撤回していたが、徳田弁護士の誘導尋問によって一審第1回・第2回公判での供述に引き戻されていた。弁護団は、一審第1回・第2回公判で不利益供述をしたのは弁護人との間に信頼関係が築けていなかったためであり、第12回公判で徳田弁護士の誘導尋問に乗って「事件現場にいたことは覚えている」旨を認めたのは逆に信頼関係が生まれていたからだということを明らかにしようとしていた。一審の古田・徳田両弁護人は一審での弁護活動を自己批判する供述録取録を提出し、1992年(平成4年)3月9日の第13回公判では輿掛の口から「一審での不利益供述の維持は弁護人に問題があった」ことを引き出そうとした。特に一審第12回公判で強引に供述を引き戻した徳田弁護士は、事前に輿掛と何度も打ち合わせを行い、「そんなことは言えません」という輿掛に対して、「僕があのような質問をしなければ有罪認定の理由に使われることもなかった」「君は僕を憎まなければならない」「お前があんなことを言ったせいで有罪にされたんだという思いを込めて言わなかったら伝わらない」と繰り返し説得した。しかし、公判では輿掛から弁護人を批判するような言葉は出てこなかった。公判後、輿掛は「先生たちの質問に充分に答えられず、申し訳なかったと思っています」と手紙に書いたが、輿掛の性格をよく知る徳田弁護士は「やっぱり駄目でしたね」と静かに笑っただけであった。 続く同年6月17日の第14回公判で、弁護団は「捜査段階における被告人の不利益供述の変遷と信用性に関する弁護人の意見書」と題する意見書を提出し、9月7日の第15回公判にかけて輿掛の「自白」の変遷について被告人質問が行われた。この中で弁護団は、輿掛の「自白」が重要な点あるいは記憶違いとは考えにくい点で変遷しており、しかもその理由が全く説明されていないことを指摘した。例えば、事件現場の203号室から自室に戻る際、当初は裸足であったとはっきり述べていたにもかかわらず、裸足だったと思う、裸足だった気がすると変わっている。また、当初の自室に入る際に鍵を使ってドアを開けたと思うとの供述も、「鍵をしてあったかどうかがはっきりしません」という供述を経て、最終的に「鍵を開けて入った記憶はありません」と変遷している。弁護団は、これらは輿掛にとって何の意味もないことであるが、警察が当初輿掛は窓伝いに203号室に侵入したと想定していたと仮定すると意味のある変遷になると主張した。すなわち、窓伝いに侵入したとすると裸足で行動したはずであり、事件当日買い物から帰った時に部屋の鍵を閉めた輿掛は犯行後に鍵を開けて自室に戻ったはずである。しかし、窓伝いに侵入したとする仮説が物理的に不可能なことが判明すると、裸足で行動したり、犯行後に戻ってくる自室のドアに鍵をかけてから203号室に行き犯行に及んだとすることは逆に極めて不自然となってしまうため、当初の供述を変更する必要が生じたと考えることができる。弁護側は、こうした供述の変遷は、輿掛の「自白」が警察によって強制ないし誘導されたものである何よりの証拠であると主張した。 同年11月25日の第16回公判には、事件直後に輿掛に取材した新聞社の記者が出廷した。輿掛は、事件直後に当時の恋人の実家に電話を掛けた後に新聞社の記者から取材を受けたと話していたが、どこの新聞社の誰であるのかは分かっていなかった。しかし偶然にもこの年の4月にその記者が別件で徳田弁護士に手紙を出し、その中で事件直後の輿掛に取材をしたことが触れられていたことから、事件直後に取材したのがこの朝日新聞社の記者であることが分かったのであった。この記者は当時の取材メモも残しており、記憶とこのメモをもとに事件直後の輿掛の様子を証言した。この記者によれば、「みどり荘に到着したのは1時15分ころで、すでに規制線が張られていた。公衆電話で話していた輿掛を見つけて電話が終わるのを待って声をかけた。輿掛は質問にはすべて答え、特に不審な様子は感じなかった。輿掛は上下ジャージであったが、ジャージの下に何かを持っている様子もなかった。取材後はまっすぐみどり荘に帰って行った」ということであった。また、後に輿掛が重要参考人として捜査対象になっていることを知った際には「非常に意外で何か自分は人を見る目がないのかなと思いました」と述べている。弁護側は、この証言によって、電話を掛けるために外出した際に血液等の付着した下着などを処分する余裕があったとした一審判決の認定の誤りを立証できたと考えた。 一方、DNA鑑定の結果はなかなか提出されなかった。当初は鑑定書の提出は1992年(平成4年)10月ころを目途とされていたが、同年9月の裁判所の問い合わせに対して三澤教授は12月末になると回答した。しかし、年が明けても提出されず、1993年(平成5年)2月4日の第17回公判では新たに着任した金澤英一裁判長から「鑑定書の提出は4月上旬になる」と報告され、この公判以降鑑定結果待ちとなって審理は完全にストップした。
※この「鑑定待ちの間の審理」の解説は、「みどり荘事件」の解説の一部です。
「鑑定待ちの間の審理」を含む「みどり荘事件」の記事については、「みどり荘事件」の概要を参照ください。
- 鑑定待ちの間の審理のページへのリンク