鉄道の運行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/24 14:45 UTC 版)
「ローゼンデール・トレッスル橋」の記事における「鉄道の運行」の解説
1872年4月6日、5,000人が参加した式で、橋は開通した。参加者にはアルスター郡、オレンジ郡、ダッチェス郡の著名人が含まれていた。その中に、1825年にデラウェア・アンド・ハドソン運河の工事で働いた技師のジェイムズ・S・マッケンティが居た。同氏は「運河を通る最初の荷船の通行と、それを越える橋を最初に通る列車」の双方を目にした唯一の人物だった。4-4-0蒸気機関車が有蓋車5両と客車2両を引いて開通運行を行った。多くの観客は橋の強度を疑い、列車の重みで崩壊するものと思った。橋は重圧に影響されないように見えたので、第2便、第3便と次第に多くの人々が乗って橋を渡った。 A・L・ドルビー & カンパニーが、橋とキングストンの間の線路敷設の工事を請けた。キングストン・ユニオン駅には1872年11月に伸びた。この時までに、列車がキングストンまで往復とも定期運行されるようになっていた。 1885年までに、橋の支持部分が補強され、線路は広軌から標準軌に変更された。1888年、ウォールキル・バレー鉄道はローゼンデール町から、橋の下の道路(現在のニューヨーク州道213号線)の交通を工事が妨げないという条件で、橋を支える橋台を建設し維持する許可を得た。同年、デラウェア・アンド・ハドソン運河から、橋の修繕のために筋交いを置く目的で、ロンダウト・クリーク傍にある運河の資産の幾つかを一時的に使用する許可を得た。橋の下の水路は危険性を持っていた。「死者の通り道」と呼ばれているように、多くの者がそこで溺れていた。ここでは幽霊が「出現した」という報告もあり、特に白い犬の話だった。 1895年と1896年、橋はキング・ブリッジ・カンパニーによって再度建設された。工事中も使用は続けられていた。この橋は、まだ前の橋の残っていた1880年代と1890年代にキング・ブリッジ・カンパニーのカタログに載っていた唯一の鉄道橋だった。この改築で、橋の構造材は鉄と木から鉄鋼に変わり、その強度に関する大衆の心配を軽減することになった。この橋の高さは、1879年にイギリスで起きた鉄道橋の崩壊事故を想起させるものがあった。鋼材はカーネギー・スティール・カンパニーから供給された。この改築で、橋脚の高さが8フィート (2.4 m) 上がり、橋は真っ直ぐにされた。最初の橋は南端でカーブしている部分があった。北側の径間の1つは1896年2月に完成し、全工事は6月までに完成した。径間の配置は1872年の橋と同じにされた。その架け替え後、1899年12月26日に起きた近くのローゼンデール・セメント採石場の大規模崩落の衝撃でも影響を受けなかった。ただし、その崩落の前に近くで起きていたボイラー爆発のときは揺れた。 この橋の架け替えから最終的な閉鎖のときまで、旅客は橋に関する心配を持ったままだった。「橋の上の車両の速度、重量、位置」が監視され、「現代の鉄道輸送の重くなる荷重に耐える」ために繰り返し補強された。1940年代、蒸気機関車が重い貨物を運んで橋を通り、橋の西側のキャットウォークが振動した。1975年までに、鉄道が老化して、連邦政府がこの橋を通るときは時速8マイル (13 km/h) までを認める規制をするほどになった。ただし機関士は時速5マイル (8 km/h) までしか出さなかった。橋の健全さ、特に橋脚の安定性は、1977年に当時所有者だったコンレールがウォールキル・バレー鉄道を廃線にする決断をする根拠になった。
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